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山口真由『「ふつうの家族」にさようなら』KADOKAWA を読みました

読売テレビ「そこまで言って委員会NP」にレギュラー出演している山口真由さん。その番組中の彼女のお作法で好感がもてるのは「自分の本を宣伝しないこと」。

なんとなくですが偉いなあと思います。

パネラーの中で一人だけ宣伝しないもんだから、山口さん、本書いてないんかと思いきや、たくさんいい本書いています(勉強本が多いけど)。

概要

今回の『「ふつうの家族」にさようなら』は、家族制度・家族にかんする法律の本です。「教科書7回読め」とかいう身も蓋もない勉強本ではありません。フェミニンエッセーの類いかなと思ったら、表紙から想像するよりはやや社会的、ほんの少し固めのご本でした。エッセーと評論のあいだって感じです。
なぜ、そんな感じなのかというと、山口さんの書きぶりが、家族制度や法律について書きながらも「イデオロギッシュじゃない」からです。「そこまで言って委員会」の他の出演者や他のフェミニズム論客がもつような「仮想敵」を、彼女はもっていません(または設定していません)

自然体で書かれていて、とても読みやすかったです。

「近くの国が襲ってくるぞ」とか「郵便局をぶっ潰したら全部解決するぞ」とか劇場型仮想敵を設定すると、わかりやすいし、簡単なのですが、そう書かないのは彼女のこだわりであると解釈しておきます。

しかし、あげられるトピックに特に目新しいものはありませんでした。

以下、メモをもめ

日本の民法はフランス法に由来している。家族の最小単位を夫婦に置くというのは欧米的な発想である。そしてそれは、結婚に神聖な意味を持たせるキリスト教的な発想に基づく。

(P.021)

「キリスト教的な発想に基づくかどうか」やや疑問。E.トッド先生に聞いてみよう!

一方アメリカは、こういう「権威」みたいなものを信用しない国だと感じる。(・・・)スノビッシュな「権威」よりは、あっけらかんと金にモノを言わせる「市場」の方を信用する。

(P.036)

だから、日本のように政府や業界団体が「倫理的に」決めたルールを国民が守るというのではなく、精子バンクなど市場に委ねられます。

精子バンクにとっても匿名で精子提供できることは、ビジネス上、重要な生命線だった。(・・・)アメリカの精子バンクは、子どものアイデンティティを知る権利と闘い続けている。(・・・)日本の精子ドナーの供給は、慶應義塾大学病院が一手に引き受けていた。ところがそれが危機に瀕している。子どもの出自を知る権利を認めたら、精子提供が激減した。

(P.039-040)

女性は分娩により母となり、男性は結婚により父となる。生殖に果たす男女の役割が非対称であるがために、同じ親であるはずなのに、父と母の決め方は同じではない。

(P.047)

最初の精子提供の例としてアメリカの記録に残っているのは、1884年、フィラデルフィアの裕福な夫婦のケースである。

(P.048)

精子提供を受けて子どもを儲けた場合にも、精子ドナーではなく、精子提供に同意した夫が子どもの父となるという法制度が、1970年代のアメリがで確立していく。

(P.049)

1990年、マージョリ・マグワイア・シュルツ。親となる理由は、子どもとの「血縁」にはない。親となって子どもの養育を引き受けるという「意思」ーーーこれこそが、彼を親にしたのだ。シュルツは論文の中でそう宣言する。

(P.050)

すべての者は等しく「意思」によって親となるーーーここに、男女の非対称が見事に解決されている。

(P.051)

2015年6月、同性婚を認めたオバーゲフェル判決@アメリカ連邦最高裁判所 

(P.073)

民主主義国においては、政策は多数決で決まっていく。けれども、マジョリティがマイノリティからなにもかもを奪い尽くしてしまうことは許されない。だから、マイノリティの人間としての尊厳は、議会ではなく裁判所が守り抜くことになる。少数者にも侵すべからざる一線を守るという意味で、連邦最高裁は毅然とそこに存在していた。

(P.077)

人の心を動かすのは、ロジックではなく、ストーリーなのだろう。

(P.084-085)

神聖な誓いじゃない。あなたをあなた以上の人間にするものでもない。結婚というのは、お互いに対する約束なのだ。(・・・)これがフェミニストの長年の闘いだった。美しくラッピングされた結婚から、高級そうな包装紙をひとつずつひっぺがす。むき出しの中身には生活感が漂う。こうやってフェミニストたちは、結婚を天の国から地上の国へと引きずり下ろそうとしてきた。

(P.108-109)

2000年に入って、カリフォルニア州の判例は、母のパートナーを父と推定する州法は、男性のみならず女性にも適用されるという判断を下した。ここに「女のお父さん」が判例で認められたのだ。

(P149)

そして今、アメリカでは「女のお父さん」が、社会でも法律でも認められつつある。リベラルとされる州の法律は、もはや「父」「母」という言葉を使わない。「親」の一択に統一されているほどだ。たとえば、マサチューセッツ州の出生証明書は、「父」「母」の欄に代わって、「ペアレント1」「ペアレント2」、つまり「親1」「親2」と呼び分けているのだ。

(P.150)

江戸時代までの日本の「家」ってのはね、これは会社なのよ。

(P.164)

江戸時代の武家制度の中で確立した日本の「家」というのは、家の財産をバラバラにせずに、次の世代に、脈々と伝えていくための装置なのだという。江戸時代の家は、武士であれ町人であれ、それぞれ「家業」をもっていた。

(P.164)

江戸時代まで日本には「相続」なんて考え方は無かったの。「相続」というのはね、個人を単位に財産を管理する方法なの。[で、それはヨーロッパから輸入である]

(P.165)

一方、日本の「家」は線である。隠居した親の面倒は子どもがみる。その子も将来は自分の息子やそのお嫁さんに面倒をみてもらう。家業を、親から子ども、そして孫へと引き継いでいくその裏で、家業を営むことで得られるあがりで、年老いた親、出戻りの娘、引きこもった息子、家の構成員全員を養っていく。家は、世代を超え、核家族の境界を越えて、一族を縦に結びつける。そして、この家は精神的な結びつきのみならず、経済的基盤でもあるのだ。

(P.167)

ここも、エマニュエル・トッドの家族構成論と比較すると面白いかもしれません。

家族制度そのものは、戦後の民法からきれいさっぱり取り除かれた。だが、組織のために個人を犠牲にするという「美学」自体は、私たちの社会に根強く残っている。

(P.179)

「家族っていうのはその国の秩序の根幹なんだよ。それぞれの国がそれぞれの制度のなかで『家族』を認定し、『家族』にだけ与えられる特典を認める。親権に扶養義務、配偶者控除に扶養控除、児童手当に母子手帳ーー誰を妻とするのか、誰を母とするのかは、それぞれの国がそれぞれの事業に従って決めるべきだよ」

(P.201)

これからの時代、私たちがすべきことは"違い"をあぶりだすことじゃなくて、”同じ”を探しにいくことなんじゃないか。家族のあり方が変わってもなお、昔と変わらない普遍的ななにかをその真ん中のところに見つけにいくことじゃないかと、私は思うようになった。

(P.228「おわりに」)

最後の最後になって、カント的な問いが出てきましたが、その「昔と変わらない普遍的な何か」を家族の「真ん中のところ」に持ってない人たちは、家族じゃなくなるんだよね、どんなに家族的な集団でも。

「血のつながりがなくてもこの子の親になる」という考えと「自分のいのちは絶えたとしてもこの家は守る」という考えの間に、「昔と変わらない普遍的な何か」がもしあるとしたら、これはもう一種の「覚悟」であるとしか言いようがありません。
「家族になる覚悟」、なんという重い十字架。
現代の若者に家族を作れといっても、これじゃ無理なわけです。

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