言葉
こんにちは、アンジーです。
今回の投稿では”言葉”について私が知っていること、考えていること、感じていることを話していきたいと思います。
言葉とは、なくてもよい
いつの時代からか、感情を持った人間という生き物が存在した。
そして、この世には目に見えない部分の感情というものが存在した。
この世に言葉がこれほどまで、種類があるということは、円滑なコミュニケーションをはかるために言葉という共通ワードを人間たちが様々な感情に揉まれていくことで、作り上げてきたのだろうと考える。
この世に言葉ができた理由
1.人間同士が意思疎通を図るため(コミュニケーションを取る)だという理由も考えられる。
2.自身の本能の部分に一番近い言葉を、たくさんの言葉の種類から探し、見つかるとその言葉が自分の気持ちと一体化しているととらえる。そして、言葉と感情が同じ価値だと錯覚すれば、ふと気分が静まり、時間を経て消化をし、それと同時に、自己満足も感じられると考える。
言葉というものは、自由な表現なのか
言葉というものが存在した初めは、きっと現在のようにたくさんの種類もなかったのだろう。
時を経て、たくさんの人間たちが生きてきた中での感情の起伏、人々の人生の尊い命、一人一人の価値、溢れるほどの数の人々がいて、やっと今こうして私たちは昔よりも自由になったと思っている。そして、今後も自由というものを未来に作るために、たくさんの新しいものを作り出していけるのだろう。
ここで考えるのは、果たしてこんなにも種類や選択肢を、自分の意志で自由に選べるこの世は、本当に心の縛りなく自由になれるのか。
選択肢が広がる分、視野も広がるが、実は広がった分、人間の脳で判別する選択肢の大きさは小さく、狭くなっているのかもしれない。
自由になった分、たくさんの感情の中で自分の感情に一番近い言葉を選んだとする。
果たして本当に一番近いのだろうか。
それならば、選択肢がない、たったこれだけの単語があったとすると、その言葉の方がよっぽどそれぞれの人間の今まで生きてきた人生経験から考えられる最高のその言葉に含まれる意味をそれぞれが作り出せるほうが不自由の中の自由なのではないのか。
最初は言葉の選択肢が少なかった
この世に言葉が存在したときに、いくつかの言葉からはじまったとする。
例えば、楽しい、幸せ、悲しい、つらい…などと、いわゆる単純な単語であれば、受け取り方次第では、どんな意味も持つ。
それを、楽しいという言葉に対して、たくさんの意味を人間たちが作り上げていく。
楽しいという言葉だけであれば、可能性は無限だ。
楽しいという言葉すらも人間という感情の中の言葉の選択肢に過ぎないのかもしれない。
言葉の種類や、その中に含まれる意味の選択肢を広げていくことで、人間たちは一番自分の気持ちに近いものを選ぶ。
そこでぴったりと当てはまるかと思えば、実はずれが生じることもありうる。
ぴったりの言葉を選ぶことほど、視点の先に見える選択肢や自由、幅や心を狭めるものはないのであろう。
選択肢を多くするほど、心や本能を苦しめる。
その分、この世では安心感というものが存在する。
そして、この世に上下関係が存在した。
何かと比べ、何かを失い、何かを得る。
このようなことを繰り返すうちに、戦争や争いごとをしなければいけなくなった。
生き物という存在が、この世に存在する前からこの世というものがあったとする。
生き物が存在するために、存在したという認識すらもこの世になく、その感情自体が生まれなかったとして、何も感情を持たないところではこのような考え方すらもない時代もあったのだろう。
そうすると、感情の起伏がない分、何かと比べることもなく、何かを対象にして物事をとらえることもなかった。
その分、戦や争いごと、そうなることで失うものの悲しみもなく、勝つ喜びもなかった。
私たちはこういう現状だからこそ、争いごとがある原因も、奥深く底を探ることも人間の脳の限界まででストップして生命を温存する。
逆にとらえれば、失うものもないことで、本当の苦しみや深い悲しみ、絶望感を感じることができない分、見えない心というものの成長は感じられないであろう。
その様々な感情によって積み重なって出来上がっていく自分の心を知ることで、感情がある人間は、その感情があることによって作り出される言葉は果たして、本当は意味のあるものなのか、ないものなのか分からないこの自分の人生の時間を、今あるこの感情を持った自分という存在を受け入れ、生きる希望を探しながら、自分の価値観で、幸せという生活を望む人もいる中で生きるということを選択するのであろう。
比べるものがあるから、何かが起こる。
そして逆の捉え方が生まれたり、他の選択肢が生まれる。
このことから、どちらが良くてどちらが悪いか。どちらが幸せでどちらが不幸か。
その答えはそれぞれ一人一人の世界にしか通用しない選択肢があるのだろう。
それを知ることが、今私たちが生きるこの時間を埋めている価値のある日々の出来事なのであろう。
どちらの選択肢も対等な価値のある選択肢である。
この世に存在するすべての出来事に価値などはなくもあり、すべてにおいて対等な価値のあるものだととらえる。
この世はなくてもいいことでまわっている。
そこに意味を持たせ、希望や夢を持ち、人間という生命の時間をより充実させ、自分自身を満たし、相手を満たし、深く広く無限に人生の可能性を与えられている人間だからこそできることを心に置きながら、人生を全うする人間がより多くいてほしい。
それでは、次回の投稿までごきげんよう♪