強度
今日も最上さんのポストの引用から書き始めます。
本当にそうだと思う。結局、押し潰されそうな強度にどう向き合うかということが、生きることだと思うし、そこをエポケーして、きれい事を言っていても何も起こらない。
ただし、誰にとってもそこに触れることは簡単ではないし、向き合ったとしてもそれに耐えられるとも限らない。しかし、それでもそこに向き合おうとした経験を通して、人は一皮ずつ剥けていくのだろう。だからこそ、焦らず、忍耐強く待つことも大事なことだと思う。
強度に触れる時、そこには狂おしいほどの濃密さがあって、まさに、ドストエフスキーが語った癲癇発作の時に見る「永遠」に似ている。その「全き死」の経験の中で、煩悩は焼かれ、やがて自分が何者であるのか、自分の魂が持つ質量の意味を知るのだと思う。
どのような表現手段であっても、そこを通ってきた表現者というものは、みなそのような「深さ」を持っているからこそ、人にも感化する力を得るのだろうし、そして、そのようなところにこそ真の生成は起こるのだと思う。
軽い魂が風に飛ばされてしまうのは「大地」にアンカリングできていなかったからだ。「大地」とのつながりがなければ、ただただふわふわ漂うような中身のない表現にしかならない。だからこそ満を辞して強度に向き合う必要があるのだと思う。
それは外にあるのではなく、内にこそあり、表ではなく、裏にこそあるのだということを、あらためて確認しておきたい。それはまさにメメント•モリ(死を想う)にも通じることと言えるだろうから。表象の操作にとらわれている限り、モノの中には入れないのだから。