一期一会
7月14日の原初舞踏の稽古のこと、まだフレッシュなうちに書いておきます。この日の稽古はいつもとは違った変則的な稽古でした。床稽古やスローの稽古をせず、オーム斉唱の後、フリーダンスを3回というものです。4人ずつ3組に分かれて順番に踊り、他の人はそれを見るという感じ。
僕自身今日は力を抜いて気張りすぎないことと自分なりに決めていたということもあって、このフリーダンス1回目においても何も決めず踊りに入りました。
何も決めていないけれど、少しずつサインがあり、衝動に従いながら動いているうちに、急に背後が立ち上がってきたと感じたり、無意識に動き出す手の動きに従っていくと身体が回転するので、それについていったりして、何か場を感じ、場を整えているというようなことをしていたのだと思います。
整ってきて、そろそろ何かが始まりそうという予感がありましたが、その何かが始まる前に鈴が鳴り、終了となったという感じでした。
その後、他の人の1回目の踊りを見ましたが、それを見ている時に思ったのは、多くの人が所在なげに見えたことでした。多くは自分に籠り、他者が感じられないとでも言いますか、自分しか見えていないとでも言いますか。。。
なぜそこにいるのか、何をしているのか、そこにいるのは誰なのか、明確に軸が立っていないからなのか、結局最後まで曖昧なまま空気が動いていたということを思いました。そして、それは自分もまたそうであったということだとはっきりとわかったので、2回目にはちゃんと準備したところから始めたいと思いました。
その時に、最上さんの方から、ここでちょっと何人かの感想を聞きたいと言われたので、「いつも最上さんがおっしゃっている、思想がなければ踊りにはならないということの意味が、今日ははっきりとわかりました。」と言いました。
そう、フリーダンスの怖さですね。自由に踊っていいと言われて踊り始めると、みんな陥ることなんだけど、何をしていいかわからなくなり、迷子になり、ただ無駄に空気をかき回して、あっという間に終わってしまうのだということをおっしゃりながら、そのことをみんなにわかってもらいたかったとのことでした。
そこであらためて「われここにあり」の存立を宣言することの意味を話されました。「花が咲いている」という時に、花は内側で存立を宣言しているのであり、だからこそ花として咲けているのだということです。どんなにちっぽけな花であっても、みな胸を張って「われここにあり」と存立を宣言しているからこそ尊いわけです。冒しがたい存在感があるわけです。
踊りというものは生命の発露であり、花が咲くことに等しいわけで、それゆえに、ここに凛として立つ「われ」を持たなければ、花は絶対に咲かないし、踊りにはならないということだと思いました。
2回目はそこを意識して始めたため、他の方の踊りを見るに、立ち姿も、目の力も、存在の濃さもまるで別ものに感じられました。ここまで劇的に変わるものかと、1回目があったからこそ、はっきりと目に見えてわかったことなのだと思います。
そして、3回目には、これは踊りであるから、少しは見せる要素を出してみようということでした。さっきの2回目が果物の芯であるなら、3回目は果肉であるとか、果汁やら、香りなど、踊りらしくなる要素を足してみるということで、音楽もマーラーのアダージョをかけることになりました。
そうそう、それに加えてテーマをそれぞれに決めることになり、皆それぞれ自分の中に入る時間がありました。僕も考えましたが、最近のずっとテーマのようになっている「翼を広げる」ということでいくことにしました。
3回目は最後の組になったので、先の二組の踊りを見ていました。皆それぞれの世界があって、空間が収縮していく人と空間が拡張していく人、閉じていく人と逆に広がっていく人というように見えて、おもしろかったです。また、皆それぞれの立っている場所が違っているのを感じました。
果肉や果汁が外に溢れて見える人もあれば、内に押し込んで外には広がってこない人もあり、踊りとして見せるという点では外に溢れる方が空間の広がりも見えてきたように思いました。しかし実際には潮の満ち引きのように、収縮と拡張を繰り返すものなのでしょう。
さて、自分の番となりましたが、まずそこに立てていることが幸せでした。「大地」の上に立ち、背中にずっと格納されていた翼を少しずつ少しずつ広げていくのは簡単なことではなかったけれど、少しずつ広がり、必要な血や強度が行き渡り、翼が形を表し始めた時には、あまりの美しさと思った以上に大きかったことに驚き、卒倒しそうでした。
ここに立てていることの喜び、ここで踊っていられることの喜び、こうして翼を広げることができた喜び、共にここにいる稽古場のみんなへの感謝が湧き上がってきて、感極まりました。
見ている人たちと背後から立ち上がる大いなる何かに支えられて、とても誇らしく思いました。僕はずっと花として咲きたかったし、こんなふうに踊りたかったのだということを、何度も何度も確認しながら、翼をさわさわと揺らしながら立っていました。とても幸せな時を過ごしたのだと思います。
昨日、facebookで中島みゆきさんの「一期一会」という曲がシェアされていたのを聴いた時に、まるで3回目に踊った時に見た風景とそっくりだと思いました。これです。↓
みゆきさんの立ち姿の美しさにも想いを馳せながら、僕もそのように立てるようになりたいと思いました。
きっと彼女は無限遠点に立ち、次元を超えて世界を眺めているのでしょう。みゆきさんの唄には必ず他者があり、そして必ず思想に裏打ちされています。その存在の強さに憧れます。
最後に、この日の稽古は皆一様にいつもよりくたびれたようでした。特に前頭葉がいつもの何倍も使う必要があったということを思います。稽古を受けるだけの受け身の稽古では使わない場所、それが前頭葉であり、この日の稽古では前頭葉をフルに皆使ったということなのでしょう。
前頭葉は、オリジナリティの場所であり、創造性の場所です。思想がなければ踊りはならず、哲学がなければ存在の強度は生まれません。こうして言葉としてまとめることも、ある意味踊りですから、これからも挑戦していこうと思います。さて、長くなりました。今日はこのくらいで筆を納めます。