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原初舞踏の稽古

今日はほんとうにひさしぶりに舞踏の稽古をしてきました。コロナということで2020年4月からずっとお休みだったので、なんと2年10ヶ月ぶりということになります。

床稽古が始まるとみるみる場の空気が変わり始めます。場は意識とつながっているということが、まさに体感できる現場です。このような場所は他には知りません。至福の時間でした。

すとんと内側に落ちていきながら、身体の疼く場所、引き攣れそうな場所があるので、それに合わせてすこしずつ細胞を動かしていく感じです。ある時はいきなりきゅーっと動き出して次のフェイズが始まります。潮が満ちて、また引いていくみたいな感じです。そんな時間を延々と積み重ねていく感じで、気がついたら僕は産道をのたうちながら出口を探しているようでした。

それはゴジラが変態する前の芋虫のような段階のゴジラのようでもありましたが、それでもなんとか身体を起こすところまではできました。何度も嗚咽したくなるような衝動をやり過ごしながら、膝で立てたときには感謝の気持ちがすごく湧いてきました。

ああ、立ちたいんだなと思いました。でもまだ立てないんだとも思いながら、今はこれでいいんだなとも思いました。「立ちたい」と確認できたのですから、上出来だと思います。

自分の奥深いところに触れられたようで、とても安らかな気持ちになりました。やはり、この場に立ててよかったと思ったのでした。2年10ヶ月前に感じたことはやはり幻ではなかったようです。

ゆっくり動きながら「ある」を超えて、「いる」を超えて、「なる」の領域に入っていきました。このように実践できて確認できる場所があることがとてもありがたいと思います。

今日飲んだ水は鮮烈で背筋がぶるっと震えました。全部飲み干そうかと思いましたが、全部は無理だと思って元の場所に戻しました。お茶碗の色がとても美しかったです。

そして最後に歩きました。全身全霊を込めて歩くとはどういうことなのでしょう? 一生懸命歩きました。手に汗握り、全身汗ばんできました。命懸けで前に進もうとしていたようです。

一度、その場に止まって足の裏を感じました。軽く揺れながら足の裏を感じていると地面の下にもうひとりの自分が逆さ向きでおりました。ああ、そうだったのかと思いながら、その影のようなもうひとりの自分を意識に上らせました。それからまた前に向かって進もうとしましたら、今度は簡単には前に進めません。

足の裏のもうひとりの自分とじゅうぶんに意思の疎通が得られたときにほんの1センチだけ前に足がずれるように動くのです。その意思の疎通がなければ、本当は前に進めないのかもしれません。それまでの自分は全身全霊前に進もうとしながら、実はただ力んでいただけだったのかも知れません。

そんなことを思いながら、何か今までとは違う自分を再発見できたような気がします。「立ちたい」と確認することもできましたし、この次があるならば、もしかしたら「立てる」かも知れません。

やはり、希望はありますね。帰り道、車の運転をしながら、ずっとそんなことを考えていました。ほんと生きててよかったと思います。

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