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「色即是空、空即是色」物質とは空間のことである~般若心経の真意~を語る

この動画、2022年4月1日にアップされたものですが、なかなかにわかりやすいと思います。今はこういうわかりやすいコンテンツがたくさん出てるので、いいですね。うらやましいです。

今日は半田さんが語られる言葉をメモしながら、ときどき、僕自身の感想も交えながら、書いてみたいと思います。


量子と意識の関係性については、なんとなく関係ありそうだというイメージを持っている人は多いと思うのですが、それがどういう機序でもって関係しているのかということを、こつこつとつなげていこうとしてるのがヌーソロジーでもあるのだと思います。

電子とは堕落したエーテル体である

この中でシュタイナーが「電子とは堕落したエーテル体」であると表現したのは、すごいと思います。本当に見えていたからこそ、こういう表現ができたのでしょうからね。

半田さんはそれを言い換えて、「下次元にひっくり返ったエーテル体」と呼び、それは電子だけでなくすべての素粒子についても同じであり、本来は私たちの外面(精神世界)にあるはずのものを内面(物質世界)の中に見てしまっているという状況のことだと言っています。

そもそも、時空を存在の場のように思って、その中に素粒子が物質のように存在していると考えること自体、素粒子の高次元性を忘却して、ただの物質にすぎないという視点にはまっていることを示しているわけです。

実際には素粒子は時空の中に存在するわけではなく、空間そのものであり、われわれの外面を支えているわけです。外面を支えるということはそれが魂であるということです。

それを、テクノロジーとして使うことの危険性、ひっくり返ったものを使う危険性ということを言っています。ひっくり返ったテクノロジーを使っていくと、やがて人間の意識もひっくり返っていくという事ですね。それをシュタイナーは警告していましたし、実際、このところの文明の危機の元凶と言ってもいいのではないかと考えます。

精神が別の方向に消費されて、本来つながるべき生命との連絡が切れてしまう危険性があることに対する危機感ということを、シュタイナーも感じていただろうし、ヌーソロジーもそこに気づかないとさすがにヤバいですよと言ってるわけです。


虚数世界=エーテル界=タキオン

素粒子を時空の中で粒子のように見立てて、それが光の速度を超えると虚粒子(タキオン)になるというような見方自体が、そもそもひっくり返っている見方であるということが言えると思います。そういう考え方は意味が錯綜していて非常に混乱した表現になっているということです。

ヌーソロジーの視点からすれば、タキオン=素粒子なのであり、素粒子自体が光速度を超えているという風に見た方が意味が伝わるということですね。

私たちの意識が素粒子であり、それが光速度で移動しているとしたら、今目の前に見えている景色には時間がなく、すべてが収縮して大きさがなくなるということになりますが、これって「持続」そのものじゃないですか? そう考えると私たちの意識が光速度で移動しているという事とちゃんと整合性が取れているわけです。これに気がついたときに、僕はひっくり返るくらいに驚きました。(笑)

「空」という捉え方

物理学者自体、物質を物質とは思っていないはずで、それは物質とは高次の空間のことであると物理学者もわかっているはずだからです。ただ、それを描像する手段がないということと、人間の概念の方が追いついていないので、どうしても説明するときに比喩として話さざるを得ないということになります。

そのあたりのことを掘り下げていくべき時代になっているけれど、現代物理学の世界では技術の方が優先されるので、とりあえず技術として応用できて、使うことができればいいという風潮の中で、物質の本性である高次性ということに関してはなおざりにされ、科学は唯物論的に使われていくしかないという現状に置かれているわけです。

これは人間の欲が暴走して、目がくらんでいる状態と言ってもいいかもしれません。釈迦もキリストもそのようなことを見越して、いろんな言葉を残そうとしたんだと思いますが、残念ながら、人間の一度見えなくなってしまった目には、その言葉は届かないというのが、今の現状と言えるかも知れません。


幅と奥行き

奥行きに距離を見るときには、それは4次元時空にいるということになります。それは他者が見ている視点が入り込んでいるからです。他者の視線をコピーして想像して見ている、幻想の世界な訳です。だから、時空というのは常に幻想空間なのであって、実体はないのです。

それに対して4次元空間においては、奥行きに距離がなくなり、プランクスケールの世界であるということになります。見ている自分も見られているものも、素粒子の中に存在しているということになります。

もし、ものを対象として見ているとしたら、それは他者視線であるということになります。

本来の自己視線、奥行きそのもので見るならば、ものは対象ではあり得ません。その時、ものは自分自身であるという事です。

だから、見ているものと見られているものは、本来はわかれてはいないということになるわけです。それが正常な意識なのです。

フィシスとネイチャー

昨日、ノートの記事で「フィシス」と「ネイチャー」の違いについて書きましたが、今日書いてきたことも同じ事だということがわかるでしょうか?

フィシスは自然をけっして対象として見ません。自らがその中に含まれる全体性としての自然であります。

それに対して、ネイチャーは自然を対象として眺め、研究し、管理し、利用し、収奪するわけです。

その違いから生み出される社会、文明がどのように別れていくか、そこについてはしっかりと見据えなければいけません。その二つの自然に対する捉え方の違いは、大きくわれわれの世界に影響してきますからね。

自然を搾取し、便利さとエネルギーを取り出し、最適化を探る方向性は、間違った素粒子の使い方です。その方向にあるのは崩壊です。

この大きな流れは簡単には変えられないかも知れませんが、気がついた人の宇宙は方向転換できますからね。そのような意識を持った人が創る社会ということをイメージしていけたらと思ってこれを書いています。





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