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引きの身体

二週間ぶりの原初舞踏の稽古。

床稽古において、いつもは他の人のことを意識することはほとんどないのですが、今日は他者の存在をいつも以上に意識することになりました。

それはおもしろい体験で、この時に起こったことが、最後の歩行の時にあった別の出来事にもつながっています。

大事なことだと思うので、順番に何が起こったのか記録しておこうと思います。

床稽古では、このところいつもやっているように、手を挙げて、落下するところから始まりました。落下し、回転して床に倒れ込み、しばらく床に向かって落ちて行きましたが、目が後頭部の方に落ちていくに従って世界が変わっていくのを感じていました。

やがて鈴の音が聞こえて、静かに身体が伸び始めたのですが、その時にいつもとは違うことがありました。

それは一緒に床稽古をしている人の動く音でした。いつもは少し他の人の存在を感じることはあっても、影響を受けることはほとんどなく、とっぷりと自分の中で空間が立ち上がっていくので、その中で、自分のペースで動くという感じだったのです。

今日は人の動く音とそこから伝わってくる波のようなものに影響を受けたのだと思います。それはたしかにきっかけとなり、刺激となり、動くこと、立ち上がることに対する衝動を喚起するようなものがあったような気がします。

その結果、おそらくいつもより少し早く立ち上がったのではないかと思います。それは自分の元々のペースとは少し違っていたかも知れないけれど、その環境の中で起こったことであり、早く立ち上がったからこそ、今までは見えなかったものが見えたような気がするのです。

次に鈴が鳴った時には動く合図ですが、いつもであればまだ立ち上がる途中であることが多いのですが、今日はすでに動く準備ができていました。

その時、僕は舞台の後方、真ん中の位置にいましたが、右側にすでに立ち上がった人の気配があり、左側にもう一人いるはずだけれど、そちらの気配はあまり感じられず、たぶんまだ床に横たわったままなのかも知れないと感じていました。

その時に右に山があり、左に谷があり、その間に僕が通るべき道があるような気がしました。右肩上がりの傾斜地をトラバースしながら、少しずつ前に前にと歩を進めていくうちに、前に進むには空間を裂かないといけないような感じがして、手を前に出して空間の裂け目に手を入れてそこを掻い潜りながら前に進みました。

少し進むたびに身体の中にあるグルグルしたエネルギーの衝動のようなものを感じ、たぶん僕は雑巾をしぼるように身体をしぼり始めたんだと思います。この動きは時に起こるもので、しぼるという動きも回転であり、螺旋なので、身体の中の何かがスクイーズされて、必要なだけ細く、細かくなったなら、突然ふわっと空間の質が変わるようなことが起こるのです。

その時には向こう側に景色が見え、そこでやるべきことはじゅうぶんやったという感じがして、もう前に進むことではないと思いました。

さっき潜り抜けてきた道の右の山と左の谷のことを思い出し、気がついたら少しずつ後ろに下がり始めていました。

下がっていくにつれ、右と左のバランスが変わっていく感じがして、そのあとはそこにできた三角がとても居心地良く、動かし難く感じ、もう移動の必要を感じませんでした。

その位置で三角を感じていた時に、いつもの音楽が流れてきたような気がします。この音楽が流れると、それまで身体の中で起こっていた振動が、さらに激しくなって、より情動的に振動が高まり始めるのですが、その時なぜだか意識は上に向かっていくような気がします。

手が上に伸び、その方向に向かって伸びていくイメージは昨日Twitterで見た、蛇が木を登っていく映像と被りました。

どうして上に登りたくなるんだろう?

そんなことを思いながら、甘美な余韻に包まれながら、最後は胸の前で手を合わせながら、身体がおさまっていくのを感じ、同時にそこにできていた三角形に対して感謝の気持ちを感じました。その三角の中におさまったことで、最後の動きが出てきたと思ったからでした。

と、いうのが、床稽古で僕が体験したことです。反芻しながら、夢を思い出して書くような感覚でなんとか言語化してみました。

しかし、最初にも書きましたが、これは最後の歩行ですれ違うという稽古の中で起こったことの前振りだったと言ってもいいのかも知れません。

最後の稽古は二人一組で、向き合い、相手を包み込み、歩を進め、出会い、すれ違い、相手がいたところに辿り着いたら反時計回りに振り返り、最後に礼をして終えるというものです。

他の方の稽古を見せていただき、最後自分の番となりました。相手の方と向かい合い、相手を包み込もうとしました。このくらいかなと思っていたらすでに一歩、相手の方が進まれるのを感じたので、少し煽られたような気がしたものの、おお、そうくるかと思いながら、そのペースを尊重しようと思い、そして僕も歩を進めました。次の一歩を感じようと思っていた時に、すでに動きは始まっていて、最初合わせたのだからとここも合わせ、さらにもう一歩、、、あれれこの感じはちょっと心地よくないぞと思った時に、最上さんの言葉が聞こえました。

「二人とも早すぎるよ。」

それから、相手の動きに耳を澄ませながらも、じっくりと自分の潮が満ちるのを待って歩を進めるように、意識が変わり、そのあとはまるで違う経験となりました。

あとで、そのことを振り返りながら、そういえば人生の中でも同じようなことを僕はしてきたのかもしれ知れないと思いました。

それは、相手をリスペクトするということ、起こることを受け入れ、それに合わせて動くということ、ではあるのですが、その時に自分の大事な部分を抑えて相手を優先してしまうようなことが時にあるということです。

そこで起こったことは、人と向き合う時にはいつでも起こりうることであり、向き合った相手がどのような人であったとしても、それができるときに、初めてコラボということは成立するのだと思います。

やりやすい人とはできるけど、やりにくい人とはできないというのは、できてないということで、人はみなさまざまな癖があり、違いがあるわけですから、いろんな人と向き合って、このような経験を繰り返さないことには、いつまでも本質は掴めないのだなと思ったのでした。

だからこそ、ギクシャクしたり、うまくいかないという経験はとても貴重なものであると思いました。

そしてこれは人生の中で出会う様々な人との関係の中でも、当然起こっているはずですから、その時に、相手の音を聞くことは大事だけれど、それをリスペクトしすぎて、自分の「間」を放棄してしまったらいけないのだということだと思いました。

最後に稽古を振り返った時の最上さんの言葉がとても印象に残り、そこで初めて、「引きの身体」の意味がわかったように思いました。

「だから、引きの身体が大事なんだよね。前のめりでは間ができないのよ。引いた時に間ができて、そこに空間が立ち上がるの。空間が立ち上がる前に動いてしまうと踊りにならないんだよね。」

一人で動く時にはできていたつもりのことが、相手がいる時にはできなくなるというのは、この世界では当たり前にあることですし、それだからこそ、人間は一人ではなく、人と向かい合おうとするのだということだと思います。

向かい合うことで初めて自分を知ることができるわけです。他者の前に立たないことには、何も始まらないし、生まれない。だから、人は人の前に立つべきである、ということだと思います。

とても、大事なことに気がつくことができた、今日の稽古も、忘れられないものになりそうです。

「だから、時に失敗することは必要なの。失敗した時には学びがあるからね。」

最後の最上さんの言葉がとても優しくて、それはたくさんの失敗をしてきたからこそ出てくる言葉だなと思い、感じ入りました。

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