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映画「花束みたいな恋をした」(ネタバレ含む)

以前話題になっていた映画「花束みたいな恋をした」(監督/土井裕泰、脚本/坂元裕二)をアマプラで観た。坂元裕二による秀逸なセリフ、菅田将暉✕有村架純という若手実力派俳優の共演。面白くないわけがない。事実、「花束みたいな恋をした」は2020年代を代表する優れた恋愛映画である。
京王線明大前駅で終電を逃し、たまたま居合わせた山音麦(菅田将暉)と八谷絹(有村架純)。少しずつ話すうち、麦と絹は音楽や映画・文学・マンガの嗜好が面白いほどマッチしていることに気付き、互いに運命を感じる。二人は何度かデートを重ね、ファミレスで気持ちを伝え合う。就職活動もほっぽらかし、恋人関係を楽しむ麦と絹。大学卒業後、フリーターになった二人は、多摩川沿いの部屋を借りて同棲を始める。

消費される固有名詞

本作品には、夥しいほどの固有名詞が氾濫する。押井守、今村夏子の「ピクニック」、小川洋子、角田光代、いしいしんじ、舞城王太郎、新海誠、「シン・ゴジラ」、「ゴールデンカムイ」、「ジョジョの奇妙な冒険」、アキ・カウリスマキ、エドワード・ヤン、「ゼルダの伝説」、天竺鼠、きのこ帝国、Awesome City Club、SMAPなど。
麦と絹は趣味がよく、二人の棲む多摩川沿いの部屋は、いかにも『&Premium』や『BRUTUS』に取り上げられそうな、洒落たインテリアである。実際、彼ら/彼女らも、自分たちの“センスの良さ”を自負している。例えば、出会ったばかりの二人が、他に終電を逃した人と深夜喫茶で喋る場面。映画好きだというサラリーマン男性は「ショーシャンクの空に」を挙げる。そのとき、麦と絹が浮かべる「ショーシャンクかよ笑」みたいな表情は、サブカル好き特有の、一種の特権意識を感じさせた。絹の父が、麦に「ワンオクとか聴くの?」と尋ねた際、彼が「聴“け”ます」と答えるシーンも然り。絹の家族に関して補足すれば、両親が大手広告代理店に務めており、彼女が金銭的/文化的資本に恵まれて育ったことにも留意すべきだろう。
さて、ポップカルチャー/サブカルチャーに造詣の深い麦と絹だが、興味深いのは、これらの「どこが良いのか/好きなのか」に関しては、描かれない点である。例えば、今村夏子のどこに魅力を感じたのか、小説のどこに心を動かされたのか、麦と絹は深く語り合わない。就活がうまく行かず、落ち込む絹に対し、麦は「あの面接官は、きっと今村夏子の「ピクニック」を読んでも、何も感じないんだよ」と言葉をかけるものの、この場面において「今村夏子の「ピクニック」」は、記号でしかない。「ピクニック」を読めば「何か」=“エモ”を感じられる、このこと自体が二人にとってのアイデンティティの拠り所であるわけだが、その「何か」は語られないのである。

花束みたいなエモい恋

前回の映画「トーク・トゥ・ミー」のレビューとも重なるが、「花束みたいな恋をした」もまた、現代におけるディスコミュニケーションを描いた作品である。

フリーターとして生活を続ける二人であったが、やがて麦はイラストレーターの夢を諦め、一般企業に就職する。言いたいことも言えないこんな世の中に適応しようとした麦は、文学や映画、音楽への関心を失う。仕事から帰ってきた彼が打ち込むのは、読書でも映画鑑賞でもなく、パズドラだ。「今村夏子の『ピクニック』に感動できない大人」になった麦と、これまで通り温室のような暮らしを続けたい絹。やがて二人の関係は終焉を迎える。時が流れれば、環境が変われば、自ずとアイデンティティは変容する。不変のものなど存在しない。
麦と絹に欠如していたもの、それは対話ではなかったか。結局のところ、二人は互いのことを深くは知らなかったのではないか。共通項を発見しただけで、人は互いを理解した気になってしまう。好きな音楽が同じ、好きな映画が同じ、言葉の使い方が同じ。たったそれだけで、“運命”を錯覚する。
互いを結びつけるのは“共感”である。(ちなみに、本作品の公式HPには、「脚本家・坂元裕二が、菅田将暉、有村架純と共に打ち上げる、共感度100%のラブストーリー」とある。)
なんか上手く言葉にはできないけど「エモい」。それに「エモさ」を感じている“私たち”も「エモい」。先にも述べた通り、麦と絹が小説や映画について「どこが良いのか/好きなのか」語り合う場面は「敢えて」描かれない。彼ら/彼女らは、大量に羅列されるポップカルチャー/サブカルチャーの諸作品を、〈消費〉しているのである。ここには一種の浅薄さが内包されている。彼ら/彼女らは、何かを理解しているようで、何も理解していない。本質を見ていない、この「根っこのなさ」が、「花束みたいな恋をした」というタイトル――言うまでもなく、花束には根がなく、すぐ枯れてしまう――にも繋がっているのではないだろうか。
映画「花束みたいな恋をした」は、現代におけるポップカルチャー/サブカルチャーの“消費”のされ方を鏡のように映し出した作品である。次から次へと繰り出される固有名詞。いずれは「花束みたいな恋をした」という作品それ自体が、“エモい”記号として消費されるのだろう。就活がうまくいかずに落ち込む恋人を励ますとき、「その面接官、きっと「花束みたいな恋をした」を観ても何も感じないんだよ」といったように。



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