選択のレイヤード
今年に入って何回目かの雪が降った後、季節は緩やかに春に向かう。公園のベンチに座って飲む缶コーヒーが冷める速度も比例する。それでも気持ちは冷たいままで鉛のような毎日をやり過ごすように、公園でこうして時間を潰している。
鳩は群れをなして、首元は陽の光を虹色に跳ね返す。遠くから白い猫が似つかわしくないほど悠然と歩いてきて、一斉に鳩は空の模様になる。いなくなって見える子どもの砂遊び。
まただ・・・。あのことがあってから、気づくといつも子供に見つめられている。寄ってたかって責めるのか・・・。全て失ってなお、その責めを問われている感じがする。
もういい加減にしてくれよ。どうして価値のない自分が生き残っているのか、それは自分が一番分かっていること。居場所も帰る場所もない。
◇◇
人生は選択の連続だ。同じように見える人の波も、選択の連なりが個を識別しているといっても良いだろう。まばたきを忘れるほど、街を眺め続けた。そして、済んでしまった選択を未だに考え続ける。
2年前、テレビドラマでしか見たことのない診察室のワンシーン。歓喜と絶望をいっぺんに聞かされた。ひとつは、新しい命のしるし。もうひとつは命を奪いかねない黒いしるし。せっかく広げた白い陣地が一瞬にして黒く塗り替えられていく感覚に、言葉は出なかった。
理央は何の躊躇いもなく「嬉しい!絶対産みます。」と言った。まさに明鏡止水。言った後、その横顔は涙でぐしゃぐしゃだったけれど、とても嬉しそうに破顔して、そしてとても美しかった。
◇◇
僕は彼女の選択についてとても反対した。彼女に何の落ち度もなく、そしてそれは母になるひとりの女性として美しい数式の解のようでもあったけれど、反対をし続けた。それはもう縋る想いのようで、子どもじみていたかもしれない。あの日診察室で見た美しい横顔を見て、まだ生まれていない命よりも今ある命を、理央の命を守りたいと思った。
僕たちは何度も何度も話し合いをし、ぶつかり合った。背を向けて寝た次の日にショートケーキのイチゴの取り合いをし、確かめ合うように手をつないで眠り、幾日過ぎたのかも分からないくらいの時間を経て選択をした。
◇◇
僕たちはふたりで生きることを選択し、生まれてくるはずだった命を犠牲にした。まだ、性別も分かる前だった僕たちの子供に「陽」と名付けて、会う前に別れた。
哀しみを抱えながら僕たちは今度は命を守るための闘いを始めた。時折、思いつめたような顔を見て、僕は選択をしたことに揺らいだりもしたけれど、病状が快復するごとにその疑念を払っていった。
◇◇
人は選択の連続で出来ている。
けれど、時として人は自分自身では選べないこともある。テレビニュースのアナウンサーが読み上げる対岸の火事は、息をするよりも早く猛威を振るい、理央にも襲い掛かったのだ。免疫力が低下した理央はなす術をなくし、別れを言うことすら僕らから奪い、そして彼女を連れ去った。
僕は怒っているのか、悲しんでいるのかも分からず、感情のうねりが身体中を駆け巡っていることだけを辛うじて理解した。僕の選択が間違っていたのだろうか。もし別の選択をしていたら・・・。繰り返し積み重ねた選択のどこを間違えたのか、理央のことを思い出しながら意味のない答え合わせを続けた。
泣いているうちはまだ僕は生きようとしていたのかもしれない。食べ物が喉を通らなくなり、食べてもいないのに吐き続けた。吐き出せない後悔を取り出すかのように、自分のことを拒絶した。
◇◇
働くことが出来なくなった僕は会社を辞めた。瘦せこけた顔で毎日公園に行き、辛うじて飲むことが出来る缶コーヒーを片手に座り続ける。理央と別れてから、動物と子どもにじっと見つめられることが多くなった。思い過ごしだと思っていたが、そうではないだろう。今や僕はとても異質な存在なのだ。生きることは、選択の連続だけれど、選択肢がどれかも分からないし、もはや何も選ぶ気にもなれない。死ぬことさえも。
◇◇
鳩の群れが飛び立って見えた子供の砂遊びに、もしも陽が生きていたらと考えた。どちらが先に見ていたのか分からないけれど、見つめられたことに気圧されて目を逸らした。逸らした先のペンキが剥がれたベンチに、鳩を空に追いやった白い猫が足を揃えて座っていた。右の前足を丁寧に舐めた後、額を撫でて、やおら僕に目を向けた。どうしてこうも見つめられるのか、僕はたまらず公園を後にした。
その夜、熱が出た。理央と同じように感染したのだろうか、眠るというよりも意識が遠のく感覚を覚えながら、諦めたように僕はベッドに倒れこんだ。
夢とも言えない夢を見る。何色か分からない闇の中で、昼間会った白い猫は浮かび上がるかのように対極をなしていた。
話すことが出来ないはずの猫が語り掛ける。これは夢なのだ。漠と思った。一度夢だと思うと、急に猫が何を話しているのか分かるようになる。たったひとつ違和感が残るとすれば、その声が紛れもなく理央の声だ、ということ。
「私のこと分かるかな。あんな別れ方をしちゃったから、会いに来たよ。」
(理央なのか。僕のこえが聞こえるか・・・おい・・・)
言っているつもりの言葉は、声帯を震わせることが出来なかった。どうやって声を出したら良いのか初めから知らないみたいに。
頭のなかに直接語り掛けるように声は続いた。
「私ね、嘘ついてた。産みたいと思った気持ちは本当だよ。でも、生きたかった。あなたと出会ってからずっと一緒に生きたいと思った。離れたくなかった。だから怖かった。あなたが反対した時、ちょっとホッとした自分がいた。でもね、あなたに私たちの子どもをどうしても残してあげたかったんだ。」
声はなお続く。僕の声は失ったまま頭の中で、意識はじたばたとした。…話したい。
「私、頑張ったでしょ。私があなたについた最初で最後の嘘。」
「私と出会ってくれてありがとう。」
「あの時、私を選んでくれてありがとう。」
猫の白色が夢の輪郭を曖昧にする。僕は必死に声を出そうとするけれど、やっぱり無理だった。じたばたと力を込めようとするほどに、夢は醒めるような気がしてどうすることも出来なかった。目を開ける瞬間に僅かに一言だけ息を吐いた隙間に言えた気がした。
だから、僕はまた選択をする。
〈了〉
『選択のレイヤード/オッドアイのしろいねこ』
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