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障害者 と 国民栄誉賞

障害者のあり方に真逆である、障害者スポーツについて考えていきます。

問題意識

障害者スポーツには理念がありません。
テレビでの報道は、「障害者、すごい!」です。

障害は、日常で発生するのですから、非日常で活躍することには意味はありません。

パラリンピックでは、社会的格差(装備する用具の技術の差など)が、露骨に歴然で、可視化してしまっているにも関わらず、 #不公平 性についてな~んにも問題にしません。

障害者にとっては、競技は重要ではなく、日常の生活の向上とそれに向けた議論の方が重要なのです。
パラリンピックなど、無くても、何も困りません。
何故、有らねばならないのでしょうか?

障害者は、完全に、多様だ。個人毎に多様だ。多様性の極みだ。
多様であれば、各種能力に差が生じるのは当たり前だ。
パラリンピックでは、この多様性(能力差)を補正して、「公平性が確保された」状態にする。そして、競い合う。
理念では「多様性を認め合う」と言いながら、競技に補正を加えて、公平性の確保という名目で、統一化を図る努力をしている。
多様性を本当に認め合うのであれば、補正などせず、ありのまま戦えば良い。
そうすれば、競技で負けてしまうことになるだろうが、負けであることも、多様性を表現したものだ。なので、勝利やメダルには、何の価値も無い。
そもそも、競技ルールに従う、ということに、障害者にとって、無理がある。
障害者は、外部に存在する規制が原因となり、障害者になってしまったのだ。
そうであるから、パラリンピックにおいても、統一的に順守しなければならない競技ルール(外部規制)を撤廃しなければならない。
これが、本来の、障害が解放されたパラリンピックのあるべき姿だ。
しかしながら、競技ルールの無い競技などは、存在しえないのだ。
ゆえに、パラリンピックが存在すること自体が矛盾しているのだ。
「負けであることも多様性だ」と認めてしまえば、努力をする意味が無くなるだろう。
それで良い。
高い確率で、多くの障害者は、パラリンピック競技でメダルを獲ることはできない。そもそも、勝つことに意味は無い。
勝ってどうする? - しょせん、非日常の世界だ。
他者に勇気を与えたいのか? - 他者は他者だ。供与と授受の関係が不確実だ。
誉めソヤされるのがうれしいのか? - 精神面で自律することをお勧めする。
障害者は、他者と何かを競い合う関係性には、全くなじまない。
むしろ、相互補完関係の方がなじむだろう。

パラリンピックへの批判をしよう


基本的な考え方

障害者に限らず全ての人に対して、「みんなちがって、みんないい」と言えます。(ここ重要)
これが、考え方の出発点になります。
そして、あとは、この考え方の延長・展開になります。

このフレーズは、NHKの #バリバラ で使われています。

NHK バリバラ (無断で画像を使用)

この番組について
「生きづらさを抱えるすべてのマイノリティー」にとっての“バリア”をなくす、みんなのためのバリアフリー・バラエティー。 笑いの要素を織り交ぜ、当事者たちが発信。 本音トークでこれまでタブーとされてきたテーマにも挑んでいきます。 みんなちがって、みんないい。 多様性のある社会を、笑いを通して考えていきます。

NHK バリバラ

この番組は、雰囲気が明るいのが良い。
ただし、内容には、疑問点が含まれており、偏ってかたよっている・間違っていると思う箇所もあるので、深刻に受け止めてはいけません
あくまで、物事を考えるきっかけが得られる、という気構えで見れば良いのです。
そういうメチャクチャな番組ではありますが、良いです。


童謡詩人・金子みすゞさん

みんなちがって、みんないい 」のフレーズは、童謡詩人・金子みすゞさんが発しました。
共感できるフレーズです。

ただ、残念なことに、下記の記事によると、次の引用のとおりです。

(金子みすゞさんは)やがて、夫との生活に心身ともに疲れ果てて、離婚。みすゞは、ふさえを自分で育てたいと申し出たが、当時の法律では親権は父親にしかなかった。何度か話し合いをしたものの願いはかなわず、夫がふさえを迎えに来ることになった前日みすゞは「どうか娘を母(ミチ)に預けてください」と夫に遺書を残して、30年3月10日の朝、26年余の短い生涯を終えた。

よみがえった幻の童謡詩人:金子みすゞ 矢崎 節夫

日本の社会が金子みすゞさんを生んだのですが、
死なせたのも日本の社会です。
そして、残念ではありますが、死なせる勢力の方が、ずっと多く、強いのです。

みんなちがって、みんないい」を唱えたとなえた者が、死んでしまって良いのでしょうか?

金子みすゞさんは死んでしまったけれども、教訓を得ることはできました。
強くあれ!強く生きろ!ということです。
そのためには、何が問題なのかを問い続ける意識を持たねばならないと思います。
問題意識を持つ、ということは、自分で考える、ということです。
自分で考える、ということは、少なくとも、役所によるプロパガンダに踊らされるな、ということです。
なので、考えるきっかけは、役所によるプロパガンダが多いです。
実際、私がこの記事を書こうとしたのも、国枝慎吾 さんへの 国民栄誉賞問題があったからです。


国民栄誉賞問題

岸田総理大臣は、総理大臣官邸を出る際、記者団に対し「国枝慎吾さんは、20年近くにわたって世界のトップで活躍され『生涯グランドスラム』を達成されるなど、前人未踏の活躍をされ、スポーツ界に大きな業績を残された。国民栄誉賞を通じて業績をたたえることができればと思っている」と述べました。

NHKによる報道 2023年2月3日

国枝慎吾さんには、国民栄誉賞があります。
金子みすゞさんには、ありません。

肝心なのは、私たちひとりひとりが、より良く生きるため、より良く考えるために、その偉人から、何を学んだのか、です。

この賞は、「社会において、何を望ましいと考えるのか」という、各人の価値観が試されているのです。


授与の理由

ここで重要なのは、賞の授与の理由です。

NHKの記事によると、2023年2月3日の午後の記者会見で、松野官房長官は、次のとおり述べました。

前人未到の快挙を成し遂げ、20年近くにわたって車いすテニス界の第一人者として世界のトップで活躍された。パラスポーツ全体の普及、スポーツの発展に極めて顕著な貢献をし、広く国民に夢と感動、社会に明るい希望や勇気を与えた

NHK 2023年2月3日

これは官房長官としてのコメントであって、授与をする正式な理由ではありません。正式な理由は、これから検討が進められると思います(2023年2月3日時点)。

また、このような趣旨の報道を受け、国民は、礼賛しました。

松野官房長官のコメントなどや国民の反応を見ると、スポーツ選手としての活躍が受賞理由であって、
#障害者 とか #多様性 とか #インクルーシブ とかではない、ということです。

つまり、
そういうことです。

障害者のため、ではないのです。

一方で、パラアスリートは、障害者などに夢や感動を与える、などと意気込んでいる、と思います。考え方は個人毎に異なるので、あくまで推測です。

他方で、多くの障害者は、アスリートが抱くいだくような夢を現実に落とし込むことをしないし、できません。

何故、実現できない、非日常の夢や感動を与えよう、とするのでしょうか。

それは、プロパガンダだからです。

本当に、当事者の為を考えているのであれば、夢や感動ではなく、学校の進路指導の先生のように、現実的な選択肢を提示するでしょう。


何故、障害者スポーツか

「障害者スポーツには哲学が無い」というのが、私の印象です。

何故、障害者スポーツなのか?
という問いを発しても、回答はありません。
ネットで検索しても、考え方・哲学は書かれていません。

東京五輪と同じで、やった者勝ちなのです。
「とにかく、やる」しかない。

おそらく、一般大衆の心の中には、「健常者や障害者に夢と感動を与えるためだ」という意識があるのではないだろうか、と思います。
アスリートが発するメッセージをメディアが流すので、それを受けたカタチになっている、と思います。アスリートは、あくまで、個人の感想を言っているだけなのです。

他方で、政権担当側には、障害者のため、という発想はありません。

現実を見ると、政権担当者側の考え方が、社会事象への認識として正確です。(「正確」であって、「正義」とは言えない)

にも関わらず、メディアは美談のように報道しているのです。

そして、一般大衆は「障害者のためになっている」と、何か勘違いをしているのです(これは推測)。


障害者スポーツがダメな理由

(1)公金を投入しているのに、何故やるのか、という理念が無い
(2)障害を乗り越えることが感動の道具になっている
(3)できる者とできない者を分断している
(4)障害部位などが重症化するリスクがある
(5)事故などに対して自己責任であることを障害者自身が理解しているのか疑問
(6)「みんなちがって、みんないい」に反している
(7)障害者は競争には向いていない
(8)理論上は、勝敗を公正にすることはではない
(9)障害者政策を実施している感の演出
(10)「障害者のため」のスポーツにはなっていない。

共通点は、障害者のことを考えてやっているのではない、ということです。

障害者のためにやっている感があるから、だまされた・偽装だという印象を持つのです。


沈黙の障害当事者

現実を生きる障害者にとって、上記の私の考え方は、当たり前なのではないでしょうか(推測)。

そこで、私は、疑問に感じてきたことがあります。

何故、障害者は、障害者スポーツに異論を唱えないのだろうか?

もっとも、現実を生きる障害者は沈黙していません。
現実を生きることに関しては自己主張をしています。

障害者福祉や障害者の雇用などの関係に対しては要望などを行っています。
しかし、障害者スポーツに対しては、沈黙しています。

障害者のための政策ではないにも関わらず、障害者スポーツが、国民栄誉賞の受賞者まで出して喧伝けんでんされていることに、何故、怒りを感じないのでしょうか。
障害者政策の偽装じゃないか。
感動の道具ではないか。
一般大衆は、その感動に飽きれば、次の感動を求めて、次の道具を使うだけです。

何故、文句を言わずに、黙っているのでしょうか。

訴えることにより、攻撃をしてくる人がいるので面倒であることや、
障害者全般に損失を与えるものではないため、特段に、積極的に、障害者スポーツを排除する必要性は無い、
ということだろうと思います。
こんなことに関わっている、時間と労力があるのであれば、雇用の確保などの実生活に注力したい、ということだろうと思います。

一部の障害者は、障害が重度化してしまうリスクのある障害者スポーツを実施します。
でも、政権の人々は、障害の重度化には、な~んにも関心はありません。
スポーツなので自己責任だということです。


最後に

私の意見・考え方は、ネガティブだと感じる人がいるかもしれません。

しかし、むしろ、「これが真理だ」などと、きっぱり言い切るのは、宗教などの、何らかの、別の意図が含まれた、人口的に創作された主張です。

自分で物事を考えないために、「政権に正解を教えてもらう」って発想になるのです。

科学的である、というのは、仮説を棄却ききゃくしていく作業でもあります。
なので、言い方・主張の仕方としては、ネガティブになります。

パラリンピックはダメだ。障害者スポーツはダメだ。国民栄誉賞はダメだ、という言い方になります。

ポジティブな言い方をするのであれば、例えば、車いすが通れるように段差を無くそう、という具合に具体的になりますが、これを実現するには、個々の具体的な複数の難しい事象を解決しなければならないため、専門性・技術性が高くなります。一般的な評論では言い尽くせません。

最初に申し上げたように、考え方は「みんなちがって、みんないい」ってことです。

みんないい、と考えるのであれば、誰か一人だけを取り上げて賞を与える、ってことをしなくても良い、ということです。
むしろ、社会的・経済的に恵まれた、一部の人に賞を与えることの方がヘンです。
そんな当たり前のことを忘れさせるようなプロパガンダ(国民栄誉賞)の方に問題があります。

何をどうするのかは各人によって様々です。でも、考え方は1個です。
みんなちがって、みんないい」(金子みすゞ)
さあ、みなさんもご一緒に!

以上

#国民栄誉賞 #障害者スポーツ #パラリンピック #プロパガンダ #この経験に学べ

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