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読書感想文:堀川惠子『暁の宇品ー陸軍船舶司令官たちのヒロシマ』(講談社)

https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000354870

 本書は、広島出身の著者の「人類初の原子爆弾は、なぜ"ヒロシマ"に投下されなくてはならなかったか」というシンプルな問いから始まる。この問いに対する答えは、序章ですぐに書かれる。広島が軍事都市であったということだ。

 広島は、明治以降、戦略的輸送拠点として日本最大の輸送基地・宇品を抱え、大きく発展した。宇品にあったのは、陸軍船舶司令部、通称「暁部隊」だ。ここが戦地への出兵、補給と兵站を一手に担ったのだという。「暁部隊」の名だけは、他の書籍でも見かけたことがあり、志賀賢治『広島平和記念資料館は問いかける』でも丸山眞男が所属していたと簡単に触れられている。

 だが、宇品の陸軍船舶司令部は、その実態はほとんど情報がないのだという。既に当時を知っている人は皆故人となっている。著者は、陸軍船舶司令部司令官であり、「宇品の主」とも呼ばれた田尻昌次氏の未公開資料を入手し、それを中心としながら、他の多くの資料と証言も使い、陸軍船舶司令部から見た近代日本戦史とも言える内容になっている。

 私自身、広島で育って教育を受けてきたが、戦前の広島について簡単に「軍事拠点であった」とは触れられるにせよ、それがどのようなものであったのか、どういう役割であったのかを深く教えられることはなく、また自分で考えることもなかった。ここ最近、広島に関する書籍を読んでいて気になったのは、広島が戦前「軍事都市」であったということが奇妙に忘却されているかのように見えることだ。歴史は、何を忘却し、何を記憶するかの取捨選択でもある。だが、戦前の広島で暮らしてきた人たちの過去の証言に現れる広島における軍の存在感の強さと、私が育ち、現在に至るまでの広島のイメージがどうにも重ならないことへの疑問が首をもたげてきてならなかった。(大流行した『この世界の片隅に』の主人公が、なぜ「すずさん」という形象なのか?という強い疑問が頭から離れない。) 

 そんな時に本書をたまたま新聞の書評欄で見かけた。紹介されていた内容が私の持っていた疑問と符合するようだったので読んでみることにしたが、実に正解だった。これまで私がヒロシマの証言などを読みながら、引っ掛かりを覚えていた部分にピースがきれいにはまるような感覚を覚えた。

 本書の主な舞台となっている宇品港(今は広島港)は、父親の実家が愛媛県であるため、小学校低学年の頃までは帰省の時に利用していた。(それ以降は、竹原港の方が早いことに気づきそちらを利用するようになり、瀬戸大橋開通後は船を利用することはほとんどなくなった。) 海に出っ張っていることもあり、宇品港を利用するのでもなければ、そんなに行く必要もない場所だ。当時の宇品港周辺のことをはっきりと覚えているわけではないが、何かがらんとしている、という印象が強かった。明治以降の埋立地であるので、もちろんそれが大きな理由ではあるのだけれど、ある程度の生活の蓄積がある場所というのは、その時間なりの人の痕跡が積み重なっていて、人間臭さのようなものが自然と漂っている。宇品周辺では、それをあまり感じなかった。これが広島の市街地であるならば、原爆投下されたからだろう、と思ったところだが、宇品は原爆の被害は受けていないはずだ。原爆が落ちたわけでもないのに、なぜこんなにがらんどうなんだろう? そもそもこの港はどういう歴史なんだろう? ぼんやりとそんなふうに思っていた。広島が軍事都市であったと軽く聞いていたのと同じく簡単に、宇品港も戦前に軍用に整備され使われていた、とは聞いていた。だが、それ以上の詳細についての説明がなされていた記憶はない。本書で描かれる宇品の様子を見て、私が感じていた「がらんどう」という印象は、これだけの巨大施設が消え失せた後の空虚感がその当時はまだ漂っていたのかもしれない、と感じた。

 ちなみに、本書でも書かれているが、いま現在の宇品周辺は再開発が進み、私が子供の頃見た景色とはまた大きく違っているはずだ。

 他に私が引っ掛かっていたのは、ハーシー『ヒロシマ』やリフトン『ヒロシマを生き抜く』に描かれる原爆投下直後の広島の救援・復旧活動の動きが早すぎる、ということだった。ハーシー『ヒロシマ』では、原爆投下されたその日の午後には京橋川を船で軍人が遡り、被害状況の把握と救援活動が行われていることが目撃されている。消化活動もすぐに行われている。また数日内に水道が復旧したことや、民間人の負傷者を似島の軍の療養拠点まで移送される態勢ができていたことも語られている。自分も東日本大震災を経験してみて、これらの態勢の迅速さは、証言者の記憶間違いなのではないかと疑ったほどだ。組織的に被災地に救援に入るには、まず交通が寸断する中での状況の把握が必要となる。さらに、物資が途絶える中で必要資材を調達し、それを運用する人を手配し、集団を役割分担し、さらに運営を維持できるだけの体制を作っていく必要がある。それには、それなりの時間が必要となり、数時間で用意できるようなものではないからだ。いくら軍の施設が一部残っていたからと言って、軍だって原爆投下は経験したことがない事態で、これだけ広範に街の中心部が焼け野原となり、その機能がほぼすべて失われたなかで、こんなに早く対応できるものだろうか?と不可解に思っていたのだった。

 本書には、まさにその謎に対する答えが書かれていた。これらの迅速すぎる救援活動は、関東大震災への対応を参謀本部として経験していた、その時の陸軍船舶司令部佐伯文郎司令官の差配によるものだった。あらかじめ何が必要となるかを把握していたからこそ、そして、兵站を専門とする部隊だったからこそ、喫驚すべき早さでその対応を取ることができたのだろう。

 もう一点、『ヒロシマを生き抜く』のなかにある記憶に残った不思議な証言として、火葬の任にあたった被爆者が、死者の名前や詳細を可能な限り記録を取るようにしていた、というエピソードだった。あれだけ多量の死体が目の前にあり、社会が破綻し、また心理的にも動転するなかで、ここまで人間的な配慮ができるのは普通ではないと感じていた。たんに人間性の問題だけでできるようなものとは思えないからだ。その答えも本書にあった。それも、佐伯司令官の指示であったという。兵站のプロフェッショナルらしく指示だけではなく、記録を取るための鉛筆と紙も支給されていた。実際には、あまりの死体の多さに、次第にその記録を取ることもままならなくなるのだが、一部であったとしても被爆死没者の名簿が作成できているのは、このおかげであるという。

 終戦によって日本軍が解散されるまでの10日間に及ぶ船舶司令軍の救援活動を、その対応にあたった篠原参謀は「軍閥最後の罪滅ぼし」と述べたそうだが、その「罪滅ぼし」が戦後の広島復興にあたって果たした無形の役割は、考えられている以上に大きいものであったかもしれない。あらゆる人間性が喪失された場所で、わずかなりとも人間性を発揮する動きや存在があったことは、人間が存在すること、生きることへの希望をつなぐものになったに違いないと思うからだ。3日後に部分再開させた市内電車といった目に見える希望だけではない。修羅世界と化した現実の中で、人が人を助けること、死者を尊厳ある存在として扱うこと、それが人間をかろうじて人間として踏みとどまらせるなにものかであると思うからだ。

 人間性のある振る舞いは、精神論だけでは可能にはならない。それを下支えする思慮と物資があってこそだ。現実を軽視し思いだけで突っ走る精神論は、非人間的な動きにしかつながらない。それが、本書を通じて描かれているとも言えるが、死者の名前を残したエピソードは、それをこれほどはないという強さで証明しているように思える。

 最後にもうひとつ、謎が氷解したことがある。本書の前半部の主役を務める田尻昌次司令官は、藩閥出身ではない。それゆえの苦難を得ることになる。田尻よりは世代がひと世代以上遡るが、会津出身で陸軍大将となり日清戦争で活躍した柴五郎の著書を読んだときに、その実務家としての優秀さに驚いた。合理的かつ思慮深く、冷静で明晰、こうした人材をかつて擁しながら、その後、日本はなぜ無謀な太平洋戦争に向かって突っ走っていくのか。そうして、指揮を牛耳るのは、おおよそ思慮深いとは思えない人たちになるのか。田尻司令官は、柴五郎と同様の人間的にも優れた実務家軍人であったように見える。これは、柴五郎だけが例外的に実務家だったのではないことを意味する。戦前日本は論理的で実務的な判断をできる人間も多数いたであろうにもかかわらず、そうした人たちを判断中枢から排除していくことによって、もの言えぬ空気を作り上げていったのだろう。そして、その空気感は、現在と一直線に繋がっているように思える。

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