フランス史🇫🇷 アンリ四世の生涯 後編 ~新時代の開拓者 繁栄と巨大な影~
はじめに
この記事は前回の記事アンリ四世 ユグノー戦争とフランス統一 前編の続きになります。
前編をまだお読みでない場合はまずは以下のリンクより前編記事をお読みください。
今回の後編の記事ではアンリ四世の激動の人生の後半を振り返り、次回のシリーズ最終記事にて前回お話した、なぜ彼を取り上げるのかの理由の部分を説明していきます。
日本には関係のなさそうな古くさいヨーロッパの歴史人物をなぜ今さら知る必要があるのか?などと思われるかもしれないですが、もろ自分達に影響している重要な話です。
現代まで続く流れ、そして未来へと描かれる流れがよりはっきりと見えてくると思います。
是非最後までお付き合い頂ければ幸いです。
アンリ四世の人生の後半を振り返る前にまずは、16世紀当時のヨーロッパの全体像が分かりやすくまとめられたこちらの動画をご覧ください。
フランス国内で起きた内戦とされるユグノー戦争の大きな背景がなんとなく見えてくるはずです。
後からいろいろと繋がりますが要点は、
"プロテスタントの教義"と"カトリックの儀礼"のどちらの要素も取り入れ優位性を確立したのがイギリス国教会である"
という部分です。
この部分をしっかり覚えておいてくださいね。
では、前回の終わり部分、ヴァロワ朝の終焉から新たなブルボン朝の幕開けとなる1589年から話を続けていきましょう。
フランス国王アンリ四世の誕生まで
カトリック同盟に連勝
さて、1589年8月2日にヴァロワ朝最後の国王アンリ三世が暗殺され亡くなったことにより名をアンリ四世と改め、法律上はフランス国王となったナバラのアンリですが、彼の名が知れていた都市の数はトゥール、ボルドー、コンピエーニュ、カルカソンヌ、モンフェラン、クレルモンなど限られた数しかなく、カトリック側も彼を王と認める事を拒否したため、まずはフランス国民からの支持を得る必要がありました。
そこで彼は1589年8月4日にカトリックを国教として尊重し続ける事を宣言し、パリからもそう遠くない北西部ノルマンディー地方から勢力拡大を開始します。
プロテスタントの王を認めないカトリック同盟は新たにマイエンヌ公シャルルを盟主に擁立し、国王アンリ四世に戦いを挑みます。
9月29日、ディエップ近郊のアルクの戦い
(Batailles d'Arques)では35,000の兵を率いるカトリック同盟に対してなんとわずか10,000の兵で勝利を収めます。
さらに翌年1590年5月14日にもイヴリーの戦いでカトリック同盟と再び対峙。
この時に頭に白い羽飾りを身に付けたアンリ四世が軍を鼓舞するために雄叫びを上げたとされており、それが後に書かれた伝記でドラマチックに記述され名ゼリフとなりました。
再び数で劣りながらもプロテスタント陣営は連勝を収めます。
※プロテスタントがカトリックに対して歴史的な勝利を収めた「5月14日」という日付をしっかり覚えておいてください。
次回の最終記事でこの日付がその後から現代までいかに重要視されてきたかが分かります。
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