藤井風「青春病」MVに映る藤井風の青春が儚く見えるのはなぜ
言葉にならないほどの衝撃が鋭角に刺さる
<藤井風公式発表コメントより引用>
その言葉の通り、無心になり感じることに全集中してから一夜明けた。いま、感じること思うことを書き留めてみたい。
まずは
①藤井風を通して自分の青春時代を追体験すること、
②彼の過ごした青春時代に思いをはせ自らを投影すること。
おおむねこの二つで、胸の奥をグラグラとかき乱されることになった。
藤井風の音高時代を思う
自宅から遠く離れた音高に進学し、レッスン漬けの日々を送っていた藤井風。はたして彼にはいわゆる「キラキラの青春」はあったのだろうか。
個人的には藤井風はいわゆるプロトタイプな「友人たちと過ごす放課後」的青春は、過ごせていなかったとみている。なぜなら音高に入学した時点ではピアニストを目指していたのであれば遊んでいる暇はないからだ。
彼の実家から高校へはかなりの距離があるという。通学時間も相当掛かっただろうし、ラジオでは「中3からずっと帰宅部だった」と話していた。終業後はすぐに帰宅し、ピアノの練習なりレッスンに通っていただろう。
音大受験生の現実
藤井風が音大受験も視野に入れていたとすれば、音楽理論や新曲視唱、ソルフェージュ、聴音書取などのレッスンにも通っていただろう。地方在住であればさらに負担が大きい。師事する先生の所(たいていは音楽大学のある都心部)まで、飛行機や新幹線でレッスンに通っていた友人も珍しくなかった。
平日だけでは、圧倒的に時間が足りない
レッスンに通うのは週末だとしても、たいていの高校生が部活動に励んでいる時間帯は、ピアノの練習と音楽の勉強に費やす必要がある。合間にコンクール出場などもすれば、長期休暇中もほとんど遊ぶ暇なんてない。
すべてを音楽とピアノに捧げて生きてきた
藤井風は多い時はピアノを1日7時間ほど弾いていたと言っていた。上京するまで、映画館もファストフード店のドリンクも未経験だったらしい。岡山県という地域性もあるが、読みはあながち外れてはいないはずだ。
「好きこそものの上手なれ」だから続けられる。けれど、なかなか厳しい世界
本格的にピアニストへの道へ進むことは本人はもちろん、支える家族もよっぽど覚悟がない限りはかなりハードなスケジュール。娯楽は音楽中心に回っていて、全てを音楽とピアノに捧げる日々。
これを幼児期からずっと続けないと、なかなか音大には入れないのが現状だ。もちろん藤井風も「ピアニストではなく歌う人になる」と決心するまでは、上記のようなタイムテーブルで過ごしていただろう。
そしてわたしと同じような思いでMVをご覧になった大人世代はもちろん、青春時代を音楽に捧げたかつての音高生、音大生はさらに胸に迫るものがあったのではないだろうか。
セピア色の写真が映し出す過去と未来
ラストにセピア色の写真を一枚一枚めくるシーンがある。デジタルカメラ全盛のいま、写真はデータで交換できるし、プリントアウトする機会も減っている。あえてプリントされた写真が登場するのは、なぜだろうか。
未来へとつながる一瞬を切り取った青春病MV
「止まることなく走り続けていた」藤井風は「歌う人になる」ことを決意し、ふるさとに「さよならべいべ」して上京した。高校では音楽に理解のある友人も多くいただろう。彼はわたしの想像よりもっと上手に青春していただろうし、決して「どどめ色」では、なかったかもしれない。
それでも「ヤメた あんなことあの日でもうヤメた」と歌い、さまざまなしがらみから解き放たれた今こそ、青春を謳歌していてほしい。何と言ってもまだ23歳なのだから。
もちろん、これからだって、さまざまな困難も待ち受けているだろう。それでも広い世界へと泳ぎ羽ばたいて経験を積むことで、さらに人の心へ響く音楽を紡ぎ出して欲しいのだ(何様…笑)
セピア色の昭和感あふれる「青春病」のMV。藤井風が水を得た魚のようにイキイキとはしゃぎ回る姿に、かつての自分の青春時代、”甘酸っぱく儚いあの時間”に思いをはせる。「失われた時を求めて」…いつまでも脳裏に染みついて離れない残像がそれを如実に物語っている。
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