藤井風「へでもねーよ」MVより 創作 短編小説 ”K”に堕ちる
海と風に乗って
わたしが”K”に出会ったのは今年の初めだっただろうか。新年を祝うあいさつも途絶え、浮き足だった人々の気持ちもようやく落ち着いてきた頃だ。
出張先のホテルはある北国の海沿いにあった。案内してくれた人たちも帰ってしまい原稿を書くこと以外、何もすることがない。わたしは、気分を変えて潮の香りを感じようと窓を開けた。1月の日本海は当然だが、まだ波が高く寒い。もう窓を閉めようと思ったその時、潮風に乗ってかすかなメロディーが聞こえてきた。
アコーディオンの音色だろうか。美しくどこかもの悲しげな3拍子の調べはするりと心に入り込んできて、なぜか離れない。わたしは書きかけていた原稿を束ねるとホテルのエントランスを抜けて、ふらっと夕暮れの街へ足を向けた。
音色に誘われて
アコーディオンの音色(ねいろ)に誘われるように歩いて行くと、移動式サーカスのテントを見つけた。それほど大きな都市ではないこの街には似つかわしくない大きなテントと芝居小屋だ。
古びたテントは、ところどころほころびており帆布にはいくつもの継ぎ当てが施されていた。少々使い古されてはいるがキチンと手入れができている。細かいステッチでかがられたその手仕事に団員たちが丁寧に使ってきたことがうかがえた。郷愁を誘う懐かしさと思ったよりも活気のある様子に、初めて訪れた街でのとまどいも薄らいできた。
「さぁ、いま巷で評判のウィンド・サーカスが始まるよ!今なら並ばず入れます。ドッグショーやジャグリング、空中ブランコもあるよ!」威勢の良いかけ声と一緒に聞こえてきたのはむせび泣くようなアコーディオンのメロディーだった。
懐かしさと驚きと
さっきホテルの窓を開けたとき風に乗って聞こえてきたのと同じ、どこか切なくなるような調べ。そうだ!子どもの頃、祖母の部屋にあった木製のネジ巻き式目覚まし時計の音だ。ネジの回転がゆっくりになりオルゴールの音もだんだんとかすかな音になって止まっていくあのメロディー。
穏やかな音でいつも鳴っていたあの曲はサーカスでおなじみの曲「天然の美」だった。わたしは音色に誘われるようにテントの中へと足を踏み入れた。
辺りを見渡すと、そこには一人の青年が立っていた。すらりとした長身の肩には赤いアコーディオンが掛けられている。ベージュのシャツに黒いスラックスの簡素ないでたちだが、色白で彫りの深い顔立ちに黒い瞳がロシアの貴族を思わせるよう。実に美しい青年だ。
彼はぴょこん、と、一つおじぎをしたかと思うと、額にかかるカールした長い前髪を手でかき上げた。漆黒の瞳を輝かせてにっこり笑うと、おもむろにアコーディオンに長い指を走らせる。ピアソラの代表曲「リベルタンゴ」だ。
あふれ出す官能の調べ
鍵盤から流れてきたのは天上の調べだった。青年の指は、まるで足の長い蜘蛛がステップを踏むように鍵盤の上を自由自在に踊り続ける。フレーズとフレーズの合間に聞こえる彼の息遣いから立ち昇るのは匂い立つような色香。清らかな幸福感がありながら、どこか心の隙間に忍び込むような孤独と毒気のある官能的な演奏。音のひとつひとつが耳に絡みつくように響いて離れない。こんな音楽を奏でる彼は、いったい何者…。
その場の空気がみるみるうちに変わり、わたしはこめかみから脳髄がしみ出すようにじわじわと汗を垂らしつつ、まさに“天にも昇るような”高揚感に包まれた。
Kのこれまで
どのくらい時が経っただろうか。
アコーディオンの演奏が一通り終わった後、わたしは彼“K”にたずねた。
「そのアコーディオンはどこで誰に習ったのですか?」
Kは少し困惑したような顔で
「これはワシが子どもの頃、実家で楽器のできないオトンに教えてもらいました。でも、それがどうかしたんですか?もうサーカスが始まってしまうで。」
わたしはサーカスなんてもう、どうでもよくなっていた。それより1分でも、1秒でも…この青年の奏でる音楽に触れていたいと思い始めていた。
「いいんだ。それより、君はサーカスの従業員なの?」
「そうです。だけどここで働くのは今日が最後で。ワシはもうこのサーカスの従業員ではなくなります。来月から別の場所でお世話になることが決まってるんです。」
「別の場所って?」
ここまで話すとKは口をつぐんでしまった。いけないことを聞いてしまったのだろうか。少し気まずい雰囲気が流れた。わたしはとっさにこう切り出した。
「夕食はもう済んだ?わたしは出張で来てるんだけど、もしよかったら、おいしいところ案内してくれないかな?すてきな演奏を聴かせてもらったお礼に君の好きなもの、何でもごちそうさせてもらうよ。」
Kはふっと顔を上げるとにっこり微笑み、キラキラと瞳を輝かせて言った。
「本当ですか?実はワシ、今日の仕事はもう上がってもいいと言われてたんです。駅前においしいカレーうどんのお店があって。インドの人がやってる本格的な辛さの。毎週末、夕飯はそこって決めてるんやけど、よかったら一緒にどうじゃろうか。」
「じゃあ、決まりだね。」
わたしたちは連れだって表へ出た。
もう辺りはすっかり暗くなっていて並んだ影法師は見えない。ところどころ電球の切れた電飾が灯り始める商店街を二人で並んで歩いて行く。少し前を歩くKは、ほんのりと潮風の香りがした。
インド人の経営するカレー店に着くと、先ほどのKが奏でた音楽とは正反対の陽気なメロディーがけたたましく鳴っていた。インド舞踊の音楽だろうか。ラクシュミーの像がちょっぴり悩ましげな視線で私たちを見つめている。
わたしたちはカレーを食べながら、色々な話をした。
Kは自分のことを「サーカスの下働き兼、楽士」だと言った。普段はサーカスのドッグショーの犬たちの世話をしたり、呼び込みの際やショータイムのアコーディオン演奏をしたりして生計を立てていること。まだ幼い弟がいるが生活が苦しく、サーカスの団長に旅芸人一座に売り飛ばされてしまったこと。東京のクラブでピアニストをしている年の離れた兄がいるらしいこと、いつか自分もアコーディオンでなく本物のピアノを弾いてみたいと思っていること。
そして来月からは彼の音楽的才能を見込んだパトロンのもとで、ピアノの勉強をしながら犬の世話係として働くこと。今はその準備をしていて、送られてきたスーツケースに荷物をまとめていたこと…。
そして「いつかは弟と一緒に暮らしたいと思ってるんです。それとオトンから話に聞いた年の離れたピアニストの兄にも会ってみたいんや。」と語った。
Kの話を聞きながら、わたしは驚きで膝から崩れ落ちそうになっていた。もはやカレーの味どころか辛ささえも覚えていないほどだ。偶然とは言え、まさか出張先のこの街で、このような出来事が起ころうとは。
告白
夕食の後、わたしたちはどちらが言い出すまでもなく、わたしの泊まっているホテルの部屋にいた。Kの身の上話の続きが気になったのは確かだ。でもそれ以上の何かを期待しなかったと言えば、それは嘘になるだろう。
「ピアノの勉強をさせてくれるパトロンはどんな人なの?」
わたしが聞くと、彼の瞳が一瞬にして曇った。
「ものすごいお金持ちやって聞いてます。でも直接会ったことはない。なんでも北海道に厩舎を持ってて馬主をやってるらしく、一度だけ馬主の会に呼ばれたことがあります。そこでピアノを弾いてくれって頼まれて。生まれて初めてタキシードって言うんじゃろか、正装してピアノを弾かせてもらいました。けど、そん時もその人には会えんかった。うちに来てくれたらスタインウェイのコンサートグランドピアノを好きなだけ弾いていいし、犬の世話もできるときだけでいいからって。でも…。」
「でも?」
「君はただ美しいままに、美しい音楽を奏でてくれればそれだけでいいと。その人に望まれたらわしは何も拒めないと…言われています。…これ以上はもう聞かんといてください。」
そう言うとKは少しうつむいて「ふふっ」と息を漏らした。
「わしのこと軽蔑しますか?」
わたしの顔をのぞき込んでKは言った。
「どうして、そんなことを聞くの?」
「あんたの顔に『信じられない』って書いてある」
Kは無言でうつむくわたしの肩にそっと手を置いた。驚いたわたしがピクリと肩を震わせると長い指をわたしの唇に当てがいながら、こう囁いた。
「わしはいつもこうやって生きてきたんじゃ。物心ついたら踊り子の姐さんや道化師の兄さんらに手取り足取りな…。目線の遣り方から頤(おとがい)の向け方、指の差し方なんか仕草の一つ一つをや。どうやったら相手が悦ぶか、何を囁けば悶えるかを徹底的にたたき込まれた。なんで逃げ出さなかったって?そりゃ、そんなことしたら、わしの代わりに弟が折檻(せっかん)されてしまう。できるわけないやろ…。」
フーっと、ひとつ大きくため息をついてKは続けた。
「何も好きでこうなったわけじゃないで。そうせんと生きてこれんかったからなんや。どんな人間だって裸にすればみんな一緒じゃろ。禁断の果実ほど甘いってな?ふふ、あんただってそう。食ったら悶え死ぬってわかってても”罪の香り”には抗えんはずや…。」
そう言うと、Kはうしろから大きな手を回してわたしを抱きしめた。
Kの髪からは潮風の混じったような涙の香りがした。
朝になると、もうKの姿はどこにもなかった。
夢のあと
わたしは何事もなかったようにホテルを出ると、昨日のサーカスのあった場所へ行ってみた。そこで目にしたのは廃墟のように骨組みだけになった移動式サーカスと、撤収作業をする従業員だけだった。
「あのう、こちらで働いていた楽士さんはいらっしゃいますか?アコーディオンの上手な背の高い青年がいたでしょ。」
「あぁ、彼ならさっき、もう始発の飛行機に乗ると言って発ちましたよ。ほら、そこの空港から。」
道化師役だろうか、人の良さそうな小柄な男がテントをたたみながら、空を指さして言った。
男に「もし、彼から電話があればわたしに連絡をよこすように伝えて欲しい」と名刺を渡して、わたしは帰路についた。
空港でもKの姿を探した。当然だが見つけることはできなかった。
甘美なる罪の香り
「K」…あの時は彼の名前を聞くことができなかったが、わたしには確信できたことがある。
Kはわたしの弟だ。
そう、年の離れたピアニストの兄とはこのわたしだ。まさか生き別れた弟とこんなところで巡り会おうとは誰が考えただろうか。しかも彼はわたしが兄だということに全く気付いていない。それもそうだろう。わたしと弟が別れたのは、彼が3歳のころ。そして私たちは異母兄弟…。
まもなくKはミュージシャンとしてデビューする。そう、わたしが資金提供し全面的にプロモートしたのだ。もう一人の弟、大五郎も旅芸人一座の元から引き取り、今はKと一緒に仲むつまじく暮らしている。
そして実は東京のパトロンとは、このわたし。
神という存在があるとすれば、一度だけと言えども私たちの犯した過ちを赦してくださるだろうか。もしかしたら見聞きするのも禍々しいとお思いになり罰せられるのかもしれない。いや、たとえ赦されず煉獄の苦しみをもって罰せられたとしても、贖罪なんてものは軽々しくできるとは思えない。
Kの指先から紡ぎ出される音楽はとろけるように甘く脊髄にまで染み渡る。まるで媚薬のように理性を麻痺させ、その美しい顔かたちと声から発せられるきらめきは、すぐさま観る者を虜にする。聴く者をたちどころに骨抜きにしてしまうのだ。
ああ、音楽の神ミューズから賜りし才能と、美神アフロディーテも嫉妬するほどの美貌を持つKは、時として悪魔のようにも見える。大胆に人の心に忍び込んでは煩悩の炎に油を注ぎ焚きつけてしまう。音楽とはピアノとは…美はこうも人の心を捉えて離さないものなのか。
Kに憑かれ、煩悩の煉獄に堕ちたわたしは、犯した罪の深さよりも自分の運命を呪った。もうわたしはKの魅力に堕ちた以上、この甘美な苦しみからは逃れられないのだ。
さようならK。あなたはいかに堕ちようとも聖人か天使のごとく気高く美しい。その指から紡ぎ出す美しいピアノの音色と、誰もを魅了する艶やかな歌、そして美の神さえもが恐れるようなその美貌で世界を圧巻する音楽家になってください。あなたに堕ちたわたしは今日限り、また姿を変え別の誰かになって旅に出ます。
Kへ
かつてあなたの兄だった怪人二十面相Zより 愛を込めて。
背景の花はカリンの花。花言葉は「唯一の恋」だそう。
挿絵はまきろんさん @makiron_hana が描き下ろしてくださいました。全てアナログ、紙に絵の具で彩色されています。描き直しのできない、手間暇かけたイラストの温かみを伝えたい。なるべくいただいたサイズで表示できるよう、そして「わたし」とは誰なのか。ネタバレにならないラストに貼らせていただきました。小説の世界を再現するだけでなく、さらに細部まで精緻に描かれた作品には思わずため息。哀愁漂う人物の表情にも、どんでん返しのラストにふさわしい余韻が残ります。”わたし”である”Z”が誰を想定して書(描)かれたのか…読み手の想像力にお任せしたいところです。まきろんさん、素晴らしい作品をありがとうございました。
出典画像:藤井風公式YouTubeより引用
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