社会に壊された人々へ①
「社会」といわれてなにか明確な絵は浮かびますか?
街を歩くスーツの人々?
摩天楼のごとくそびえ立つビル?
いいえ、それらは「人々」であり「ビル」であって「社会」ではありません。
「社会」とは、実にぼんやりとして曖昧なコトバです。
明確な絵を結ばない。
テーブルならテーブルが、リンゴならリンゴが浮かぶのに、「社会」は何を思い浮かべても「社会」の絵にならない。
それもそのはず、「社会」とは思想なんですね。
1800年代に、フランスでつくりだされた新規の思想。
サン・シモン(1760~1825)という思想家が、社会societyをつくりあげました。
現代のパリ、あの憧れの街はサン・シモンの後にできあがります。
社会societyという思想を背景にして。
だから僕らは「社会」を描けない。
思想という抽象物なのだから。
そして現代日本人は、この思想にふりまわされ、傷つき、もがき、引きこもったり、人間に疲れ果てて。
社会に馴染めないばかりに、ネットで誹謗中傷をくりかえす人種も生まれています。
どろりとまとわりつく粘着性の怨念が、社会から締め出されて、どこにもむかいようのないままに、四方八方に流れだしている。
社会が、人間を吸収しきれなくなっている。
毎日、同じ生活をくりかえす社会人の、その内面には、おぞましい粘着物が溢れかえっている。
当然といえば当然の帰結です。
さっきも言ったように社会societyというのは、外来の輸入された思想であり、そもそも日本人の体質にはあっていません。
A型の人間にB型の輸血をするようなものです。体が拒否反応をおこしている。
キリスト教的思考を土着日本人は拒否しているんです。そうとうに深刻な状況です。
輸血に失敗して錯乱状態。
精神構造が、迷路と化している。
この状態を予見していたニーチェ(1844~1900)は、こんな文章を残しています。
キリスト教徒について書かれた文章ですが、キリスト教信者の苦悩と、僕ら現代日本人の苦悩は同じです。
キリスト教信者の精神構造はこうなっています。内側に引きこもって、神経質にものごとを考えていると、不安や恐怖に襲われる。
それが極端になると、現実的なものを憎み始めるようになる。
そして、とらえようもないもののほうへ逃げ出していくのです。また、きちんとした決まりごと、時間、空間、風習、制度など、現実に存在しているすべてのものに反抗し、『内なる世界』『真の世界』『永遠の世界』などに引きこもるのです。
『聖書』にもこう書いてあります。
『神の国は、あなたの中にある』と。
現実を恨むのは、苦悩や刺激にあまりにも敏感になってしまった結果でしょうね。
それで『誰にも触って欲しくない』となってしまう。
神経質になって悩み始めると、なにかを嫌うこと、自分の敵を知ること、感情の限界を知ること、そういう大切なものを失ってしまいます。それは自分の本能が『抵抗するのに、もう耐えきれないよ』とささやいていると感じるからでしょう。
彼らは最終的に、現実世界とは別の『愛』という場所に逃げ込みます。
それは、苦悩や刺激にあまりにも敏感になってしまった結果です。
実はこれがキリスト教のカラクリなのです。
(『現代語版アンチ・クリスト キリスト教は邪教です!』ニーチェ著 講談社+α新書 2005年)
職場のやりづらさの正体。共同体(おじさん)vs社会(若者)
『社会society』は、日本人の体質にあっていない、という事を話しました。なぜ体質にあわないか。
『社会society』とは、キリスト教そのものだからです。
キリスト教が、戦後日本に本格的に輸入されました。
輸入をやり遂げたのは、ニューディーラーという、アメリカの思想集団。
いくつかの資料を読みこんで僕がわかったことは、アメリカの占領政策の目玉は『日本土着の共同体を破壊する』だったこと。
社会societyを信仰するニューディーラーは、この政策に、うってつけの思想集団です。
『共同体community』と『社会society』は、ちがうんですよ。
真逆です。
共同体(土着日本)を破壊して社会(キリスト教)を移植する、これがアメリカの占領政策でした。
共同体vs社会、という枠組みで考えていい。
全体像が、はっきり見えます。
そして、日本の共同体は破壊されました。
日本土着の、壊された共同体とはなんだったのかと言いますと、それは「なんとなく」にもとづく人間関係です。
きっちり割り切ることのない、プライベートになんとなく侵入してくる人間関係です。
若い人らが拒否する、職場の上司のあの感じです。
現代日本の働きづらさは、共同体にもとづく懐古主義のおじさんが、機能集団としての職場を理解しないことにある。
ようは「ビジネス」ではなく共同体なんです。
かつて、この共同体が大成長して世界ナンバー2の経済大国になったものだから、おじさんらは「ビジネス」を知る機会がなかった。
ところで、最近ニュースになった終身雇用の話、あれこそ共同体communityの特徴。
日本企業の特徴ではないですよ。
世界いたるところに存在する「共同体community」という類型に、年功序列や終身雇用という特徴がある。
インディアンもそうだし、それこそアイドルの追っかけグループもそうでしょう。彼らは「共同体community」です。
そして何故か、「共同体community」がそのまま会社になったという日本の不思議。年功序列や終身雇用をひきつれて。
「日本人は地縁でも血縁でもなく、協働によって共同体communityをつくりあげる」と碩学の天才・小室直樹氏からの報告があります。
戦後の会社は共同体communityでした。戦前の農村もまた、共同体でした。
そして戦前日本に無数に広がる「共同体community」こそ、不可解かつ厄介(やっかい)な日本的性質の根源だと、アメリカは見抜いたんです。
自分の命を犠牲にしてまでも、敵兵を殺そうとするのが日本兵でした。特攻のことです。
日本人という種族を見て聞いてさわって、高度に抽象した結果「共同体community」こそが、日本人の意味不明な行動の根源だと、アメリカは見抜きました。
それで戦後アメリカは、土着の日本共同体に代えて「社会society」を導入したんですね。
社会と共同体は、ちがう。あまりに違う。真逆です。
日本人の体に、未知の血液が入りこみました。
社会societyの基盤はマネー
日本人の体に入りこんだ『社会society』という思想は、サン・シモン(1760~1825)という、フランスの変わり者がつくった宗教の集大成です。
ここでビックリするようなことを言いますが、カトリックのGodを近代化したものが、社会societyです。
Godがいなくなり、混乱し尽くした悲惨なヨーロッパ世界に現れたのが『社会society』という調和世界でした。
教会には行かなくなりましたが、やっぱり人は暖かみが欲しかった。
人間同士の繋がり。それを今度は宗教ではなく、お金という手段で回復させようとしたんですね。
社会societyをつくりあげる土台は、お金です。
お金、マネーmoney。
マネーの語源は古代ローマの女神モネタですが、さらにさかのぼると記憶をつかさどる古代の女神・ムネモシュネ。
ムネモシュネは、9人の学芸女神・ミューズたちの母です。ミューズは、ミュージックの語源。
それで、母であるムネモシュネのつかさどる『記憶』とは、予定調和pre established harmonyのことです。
最初からそこにある、普遍の、美しい調和のこと。
だから、予定調和=ムネモシュネ=マネー。
マネーは、普遍の美しい調和としての社会societyをつくりだす。
僕らの目前に、いや僕らを大きく包みこんで、死んだはずのGodの世界が出現する。
だからマネーこそ、人間関係の真髄なんですよ。
日本人には汚いものとしか見えないマネーは、もともと人間同士の暖かみをもたらすツールとして採用されました。
マネーは社会societyという調和空間をつくるための神聖なものでした。
断じて汚いものではなかった。
だからマネー土台の「社会society」は近代の最大信仰であり、キリスト教の生まれ変わりなのだということを、ここでは明記しておきます。
引用文をひとつ載せておきます。
やや難解ですが『社会society』の創始者・サン・シモンについての文章です。
将来の産業的科学社会では、精神的なものと世俗的なものとのあいだの緊張はすべて排除されるであろう。
ちょうど、キリスト教的心身対立論が新しい調和的人間像を生みだすべく運命づけられていたように。
有機的なものと批判的なものとの律動(リズム)は、全時代を通じて永遠に続くのであろうか。
人間は無限の循環と危機とを通過しなければならないのであろうか。
サン-シモンの答えは、はっきりしていた。新しい有機的な産業的科学的体制が「最後の体制」だろう。その開幕とともに、循環は終わり、人間はこれまでに知られたようなものとしての歴史がもはや存在しなくなった黄金時代に入るであろう。
至福千年の王国に到達したので、そこには成長・成熟・衰退の新しい循環という意味でのさらなる発展はおよそありえないであろう。循環が螺旋状的に進みながらめざしてきた目標と目的とが、達成されたのだ。
サン-シモンが生きている時代の批判的過渡期は、最後の闘争期だった。黄金時代は、もはやいかなる生活循環ももたぬであろう。けだし、それは地上における真の天国だからである。
※中略
新しい綜合へのアピール、新時代の開幕へのアピールは、サン-シモンの晩年に有能な若者たちを魅了した彼の思想の中心的側面であった。
これら若者たちはすべて、有機体のように全体が統合され調和のとれた文化を、当時の過渡期の終焉を、切望した。
彼らの知的欲求と情熱的欲求とを一挙に満たすことを約束した「批判の余地なき」イデオロギーに魅せられて、すぐれた一群の人々が、サン-シモンの死後にその教義のまわりに結集した。
ペレール、ロドリーグ、ミシェル・シュヴァリエ、バザール、デシュタル、等々。若きJ・S・ミルは、サン-シモン派のおしゃべりの多くに辟易させられたけれども、その彼でさえ、一八三〇年代初期には、この体系と軽い恋愛遊戯にふける以上のことをした。
身を守ってくれるような「有機的」なものの温かさへの激しい願望が、一八三〇年代および四〇年代の多くの芸術家や作家ー社会の動揺・不安・矛盾に対して大方の同時代人よりもずっと敏感だった人々ーにとって、この教義を魅惑的なものにさせた奥深い原因だった。
(『サン-シモンの新世界 下』p442~p443 フランク・マニュエル著 森博訳 恒星社厚生閣 1975年)
まとめると
サン・シモンのつくった社会societyとは、生まれ変わったカトリシズムであり、もっとさかのぼれば、古代ギリシャのプラトニズムにまで行き着く、日本人にはまったく未体験の思想空間です。
こんなものが、日本人の体にあうわけない。
A型の体にB型の輸血が行われたんです。
『社会society』とは、近代における最大の信仰です。
だから、現代日本の社会人は、自分が巨大な信仰の中の、敬虔なる信徒なんだということを知るべきです。
毎朝毎朝、決まった時間に出勤するあなたのその行為は、ローマ・カトリック教会にひざまづく中世のカトリック信者と、なにも変わらない。
現代日本人と中世西洋人は、まったく同型の精神構造をもつ。
アメリカから日本に移植された精神構造、信仰です。
そして、その信仰の中で、なんであなたがそんなに苦しいのかといえば、輸血されたその血が、生来(せいらい、生まれつき)の日本人の体質にあっていないからです。
(続)