繭の糸を紡ぐ
4月某日。私は、足指を骨折した。
小指の骨だ。レントゲンの写真には、誰が見ても一目で患部がわかるほど、明らかな亀裂が入っている。
医者にヨガのアーサナ(ポーズ、座法のこと)の練習中に負傷したことを説明すると、彼は私を諭すように「くれぐれも安静にするように」伝えた。今まで当たり前にできていたことができなくなる。
骨折した幹部は、石膏で覆ってから、白い包帯でぐるぐると巻かれる。
折れたのは、左第五基節骨。俗に言うと指ではなく、足の裏の指の付け根のあたり。
足指骨の構造を見ていると、なんだか鳥みたいだなあと思ったが、調べてみると鳥の足の方がずいぶん便利そうだ。
ヨガのレッスンで、足裏を土台として感覚を研ぎ澄ませることは幾度となくあったのに、ほとほと足に目を向けられていなかったことに改めて気づく。
私は、私の足と、骨を折ってから初めて出会ったようだった。
端なくも「インテグラルヨーガ パタンジャリのヨーガ・スートラ」(スワミ・サッチダーナンダ著 伊藤久美子訳)の一節、蚕の一生を追想する。
蚕は、ただ心のままに餌を食べ、疲れ果てるまで際限なく食べ続ける。
お腹がいっぱいになった蚕は、うとうとと意識を失うように寝てしまう。
食べたものを消化するために、口から粘液をだらだらとたらしながら、ゴロゴロしているうちに、蚕は自分の粘液にがんじがらめになり、繭になってしまう。
やがて目覚めた蚕は、真っ暗闇の繭の中で、自分自身の状態に気づき、今までの利己的な行いを悔い改め瞑想に入る。
独善的な生き方を捨てること、物事をありのまま受け入れる前によく識別することを決意した蚕は、離欲と識別という翼をてにいれ、美しい蛾となり、美しく羽ばたいていく。
今は繭の中。やっと眠りから覚めたのだ。
「私はどこにいるんだろう?何が起こっているんだろう?」
私は私に問いかける。
明かりがなくて、よく見えないが、目が慣れてくると足元に白いものが浮かび上がる。
「これは・・・包帯だ!」
様々な制限下での生活がどんなに不便なことだろうと不安に思ったが、実際に暮らしてみるとそうでもない。
わざわざ歩いて買い物に行かなくても、家に届けてくれるサービスがある。
歩いたとしてもそこら中にコンビニがあって、ほんの数分で辿り着ける。
外出だって公共交通機関が発達しているし、タクシーもアプリですぐ呼び出せる。
「安静に」という言葉は、私に裁量権を一任されており、その時点で私はほとんど自由であった。
自分の思いのままに行動し、制限することもできる。
ずっと眠り続けることだってできる。
毎晩シャワーを浴びてから、包帯を丁寧に巻き直す。
自らの手で頑丈な繭をこさえる。
もしくは、ひとつずつ紡げば、上等な絹糸ができるのでは・・・。
そうして私は、また繭にかえる。
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