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げっぷ出る?出ない?と聞いてみる毎日(生後2ヶ月)

何が何だかわからないけれどとにかくお世話をしなければという責任感と焦りと幸せが入り混じった感情の中に、“小さい人”と暮らしていることによる楽しさやゆかいな気持ちが増してきたのが生後1ヶ月〜2ヶ月にかけての頃だった。

その頃の子育て日記を見返すとこんなことを書いている。

◯◯(娘ちゃんの名前)、「ゆめがきました」のゆめのページで踊ってて、けっこう絵を楽しんでくれてるのかも!!!

生後1ヶ月と20日の日の日記

絵本を読むようになって、日記の通りリアクションがよいときもあればじーっとただ聞いていて無反応なときもあり、娘ちゃんの好みが出てきたような気がして嬉しかった。

湯船デビュー✨好きそうでよかった。

生後1ヶ月と1日の日の日記

沐浴の頃からお風呂場で泣くことはなかったのでお湯に浮かぶのは好きなのかなと感じている。
頭からシャワーをかけても大丈夫。目にお湯が入ってしまったときも泣かず、目に泡が入ってしまったときも(嫌そうな顔はしていたけど)泣かなかった。
ただ、泡が口に入ってしまったときだけは聞いたことない声で泣き、唾を出し、鼻水も出して不快感を表出していたので、味覚が敏感なのかもしれない。

好き嫌いが見えてくると、ただお世話をする相手ではなく、“人”という感じがしてくる。

他にもこんなことを書いていた。

午前中、◯◯(娘ちゃん)が1人で遊んでる横で◇◇(夫の名前)とダンスしてたら、◯◯が淋しそうにこっちを見てて、一緒に踊ったら喜んでた!

生後1ヶ月と12日の日の日記

一緒に踊るとは、娘ちゃんがごろんしているところに近づいてしゃがんだ状態で歌って踊ってみたら、娘ちゃんもにっこりして声を出し手足をじたばたしていた、ということだ。

生後1ヶ月半の頃には目が合う頻度が増えたり、目が合ったときに娘ちゃんがにっこりしたり、こちらを認識したうえでの反応が増えたように感じて幸福度が増した。

私の中で特に嬉しかったエピソードがある。

なんとなく「今はげっぷしたいの!」がわかるようになってきた気がする。

生後1ヶ月と2日の日の日記

我が家では、膝の上に座ってもらうような体勢をつくり、顎を支えるようなかたちでげっぷのお手伝いをしている。
生まれたばかりだとすぐにげっぷを出せないので、げっぷが出るまで5分以上かかることが多く、しかも出るのかどうか(出したいのかどうか)はわからず5分待ってみたけれど出なかった(出したいわけではなかった)ということもしばしばあった。

また、娘ちゃんはげっぷをするときの体勢にこだわりがある様子だった。手で顎下を支えるときに、できるだけ首寄りに手を当ててほしいようで、こちらの手の位置が悪いと顎をくいっとあげて乗せ直そうとする仕草を見せるのだ。

そのため授乳後にげっぷを出すときは、
・げっぷをお手伝いする体勢をつくる
・首がすわっていないので、頭の重みがどこにかかっているのかに注意を払いつつ適切な状態を保つ
・娘ちゃんの心地よい顎の支え場所を探す
・①〜④どの状態か判断していく
 ①げっぷを出したいけれどうまく出せない
 ②げっぷが出るはずだけれども本人は気にしていない
 ③げっぷは出ないけれど本人が出したいモードになっているので切り替えをしたほうがよい
 ④げっぷは出ないor既に出ている→ごろんしにいく
・・・と、判断することが盛りだくさん。
ちなみに①〜④の判断を誤って、例えば①の状態なのにげっぷタイムを終えてごろんしにいこうとすると抗議される。

最初は体勢をつくるのも娘ちゃんのげっぷ状況の判断も難しかったのだが、日記を書いた日を境に少しずつ通じ合っている(ような気がする)タイミングが増えた。

今はげっぷをしたそうにしている(気がする)、今はげっぷしなくてよさそう(な気がする)の2択を間違えなくなった。さらに、げっぷの体勢をつくると一瞬満足そうな顔をしたあとげっぷを出すために集中しているような表情を見せてくれるようになった。

言葉を使ってのコミュニケーションはなくとも、目と表情と動きとで娘ちゃんが何かしらの要求をしていることがわかるようになって嬉しい。
そして何を要求しているか少しずつわかるようになってきて楽しい。

げっぷする?しない?を毎日質問していたら、娘ちゃんとのコミュニケーションができるようになってきた(気がする)のである。


どこまでいっても“気がする”がとれないのは、言葉でのコミュニケーションに慣れすぎていて、言葉で表出してもらわないとその相手が本当に何を考えているのかわからないと思ってしまうからだ。不安になってしまう。
しかしこれは、言葉以外のものからその相手のことを知ろうとすることを怠っている私の惰性でもある…。赤ちゃんに限らず、言葉という手段以外でのコミュニケーションをとる人はいるわけで。
これはまた別の機会に向き合い考えてみたいと思う。

このテーマが頭によぎるたびに、「私は言葉こそ信用できない。偽れてしまうものだから。ただそこにある表情とか空気感からのほうが読み取れるものがたくさんある」と話していた友人を思い出す。

話を元に戻すと、娘ちゃんとコミュニケーションがとれるようになってきた(気がする)ので、毎日がより楽しくゆかいになってきた。

産まれたての頃は、可愛すぎる存在ではあるものの“家族”と呼ぶにはまだ少し違和感があった。それが、時間を重ねたことで一緒に暮らしていく相手だという実感が湧いてきて、そしてその相手との暮らしがなかなか面白いと感じるようになってきた。
これからの暮らしも楽しみだ!

(2024年11月〜12月、生後2ヶ月頃の日記)

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あんみつ
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