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受け身をとれるから投げられる

今日は悲喜こもごもな1日であった。
もしアクセントをつけるなら「喜こもごも」だ。

でも、もしかしたら2時間後には「悲こもごも」な1日に変わっているかもしれない。
さてどうなるか。またあとで続きを書こう。

∽∽∽

さて、落ち着いたので続きを書こう。
結果からいうと「悲こもごも」に転んでくれた。
なぜもともと「悲」のほうが濃かったか、超ショートカットしていうとコミュニケーションの谷に突き落とされていたからだ。

あまりくわしくは書けないので抽象度の高い話になってしまうが、チャレンジしてみる。

わたしの職業はライターだ。ライターにとって言葉は商売道具とも表現できる。料理人にとっての包丁のようなものだ。
包丁も言葉も、使い方を誤れば最悪人の命がなくなる。
それだけのものを扱っていることは日頃から意識しているつもりである。

読者をおびやかす文章は書きたくないし、白を黒だと偽るようなことも書きたくない。
けれど商業ライターである以上、いつも自分の書きたいように書けるわけではない。黒に近いグレーをだいぶ白に近いグレーとして書かねばならないときもある。
それを「仕事だから」と割り切れないわたしは、もしかしたら本物のプロとはいえないかもしれない。でもやっぱり心がじくじくする。

あまりに「ちょっとそれは」と感じるときには提案もするが、それも言葉を尽くし心を尽くし、下手したらひとつのメッセージに2時間を要することさえある。

「無理です」「できません」
ひと言で表せばたった5文字。
しかし、ここでもわたしは人として、言葉を扱う者として、最低限の礼儀を持って文章に臨みたい。だから悩む。すごく悩む。

そこまで悩んで書いても伝わらないときは伝わらない。
誤解のないようにすべてを書こうとすればA4用紙1枚ぎっしりでも足りないかもしれない。仮にA4用紙1枚書いても伝わらないかもしれないし、その前に読んでもらえないだろう。

読んでもらうためには意味がとおる最低限の文章を残して、あとはバッサリ削らなければならない。
ではどこを削ろうか、どこなら削っても問題ないだろうか、この表現は指示語に代えても通じるだろうか。まるで彫刻家のように神経を尖らせてメッセージを形づくっていく。

時折「ここまでしてもどうせ理解してもらえないんだろうな」と投げやりな気持ちも顔を出す。というか投げ出したくなる。
でもやりとりのボールがこちらにある以上、投げ出すわけにいかない。

脳みそがちぎれるぐらい言葉を絞り出しても伝わらない相手に、いったいどうボールを返せばよいというのだ。
…そいしてわたしは谷底で遭難した気分に陥っていた。

∽∽∽

どうにもならなくて師匠の時間をちょうだいし、教えを請うたのが先ほどで、谷底からすくい上げてもらったため「悲こもごも」に転換したわけだ。

師匠の話を聞いていて、ああ、受け身を取れる相手しか投げられないよな、と思った。

受け身をとれる相手とは、言葉の読解力が高い人や、関係ができている相手だ。
たとえば「あれどこにある?」「ちょっとぉ!あれどこにあるの!」と、もはや質問ともいえない雑で乱暴な投げ技は、母にしか通用しない。
母は「靴箱の上じゃないの?」と芸術点100点満点の受け身をとってくれるが、夫なら「あれじゃわからん」と返ってくるだろう。至極真っ当だ。それに、わたしも夫に母レベルの受け身を期待していないから、最初からそういう投げ方をしない。

逆に夫はわたしに対して「人の道を外れている」だとか「ふつうじゃない」「どうかしてる」「人としてどうなの」などと平気で投げ技をかましてくる。
そういう言い方、会社でしてないよね?と尋ねたら「するわけないやろ」と即答だった。つまり夫はわたしがその程度の受け身をとれると知っていて言っている。…ごっつぁんです。

言葉が足りなくても、ズケズケものを言っても、互いに不快にならずコミュニケーションが成り立つのは、互いが互いにどれだけの受け身がとれるかわかっているからだ。

どれだけの受け身がとれるのか知れない相手、受け身が苦手な相手には、手を変え品を変えが必要なんだと思う。
師匠にそう気づかせてもらえたおかげで、同じ谷にはもう落ちなくてすむだろう。

そして、わたしにしてはめずらしく、あと2日も残して今月の仕事を終えられた。だから「悲こもごも」となった。
どんよりした雨雲を横目に、軽やかな気持ちで週末&月末を迎えられそうだ。



今日も読んでくれてありがとうございます。
あなたにとって最強の受け身をとってくれる人は誰ですか?

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