1周まわって世界の中心にいることにした
「言葉より行動で示せ」というが、果たして行動だけでじゅうぶんに気持ちや姿勢を示せるのだろうか。
ときには言葉で示すことも、だいじだと思うのだ。
たとえば感謝の気持ちはいい例ではないか。
「ありがとう」と言葉にしなくては、相手に伝わっていないこともある。
ビジネスの場においては業務の工程だとか、ちょっとしたこちらの気遣いも、きちんと言葉にしなければ「え?それってやってくれてあたり前なんじゃないの?」と捉えられてしまって、搾取感にもつながりかねない。
(伝え方が難しいんだけどね)
「言葉にしなければわかってもらえない」というのは、自分に対しても同様だと思うのだ。
自分の思いを言葉にしないと、自分がよくわからなくなる。
結局自分はどうしたいんだろう、と迷子になる。
わたしは自他ともに認めるひねくれた性格の持ち主だ。
幼少期のころには、世界は自分を中心にまわっていると思っていた。
どうしてみんな三輪車や鬼ごっこが好きなのだ。
おかしい。
三輪車や鬼ごっこなどぜんぜんおもしろくないし、絵本とお絵かきのほうが楽しいでしょうよ。
どうしてみんな、わからないのかな?
…完全に嫌なやつだ。
口には出さなかったのがまだ救いだろう。
クラスではちゃんと浮いていたけれど。
中学校になっても嫌なやつっぷりは顕在で、ジャニーズだの、月9だの、だれそれくんが好きだの、まじであくびが出ちゃうんだけど。
え、なんでみんなパンクロックと格闘技に見向きもしないの?こんなにおもしろいのに。
…口には出さなかったのがまだ救いだが、ようやく気づいたのだ。
世界は自分を中心にまわっているどころか、わたしはこの世界に「ただいるだけ」なのだと。
学校はとりあえず行かなければいけない場所だと認識していたので、クラスに「居ること」はするけれど、うわずみにプカプカ浮いているだけである。
クラスメイトや部活のチームメイトがヨーグルトだとするのなら、わたしはカップの上のほうの液でしかない。
いるけど、まったく混ざっていない。
自分はヨーグルトのうわずみだと気づいてからは、自分の趣味嗜好を口にすることが激減した。
かといって流行にもまったく興味がないので、どっちにしても会話に混ざれない。
それでも同じヨーグルトの容器のなかに居させてもらえることに感謝すべきだったのかもしれないが、残念ながら当時のわたしは感謝の「か」の字すら持ち合わせていなかった。
だって容器のなかにぶち込んだのは先生たちでしょ。
わたしの意思じゃないもの。
「えいみ月9も観てないとか、やばくない?」
…くだらない
…おもしろくない
…あんたのほうが「やばくない?」
そういう気持ちをずーっとずーっと我慢していたから、こんな卑屈な人間ができあがってしまった。
今でこそ多少大人になって、さすがに「まあみんな趣味嗜好は違うからね」と思えるようにはなったが、それでもやっぱり、メンタルに元気がないときは毒づきがちである。
毒づいているのに気づいて
「こんなふうに思ってしまう自分は嫌なやつだ」とか
「こんなことで腹を立ててはいけない」とか
ついそうやって自分を抑圧してしまうけれど、そんなことばかりしているとただ人に合わせるだけで自分がよくわからなくなるか、自分の殻に閉じこもって変なプライドの権化となり、どんどん世界がおもしろくなくなる。
いいんだよ別に毒づいたって。
大いに毒づけばいい。
それはこっそり書類の裏にでも殴り書きにして捨ててしまえばいい。
自分は嫌なやつなんだから、なにを今さらびびっているのだ。
それに、我慢するからどんどんわいてくる。
いったん自分の気持ちを自分の言葉にしてあげないと、自分の声が自分の耳に届かない。
自分を無視して、人生は楽しいのかね。
心の声は道標だよ。
そのうえで世界との関わり方を変えればいい。
隣の芝が青く見えるのなら、自分の芝はどピンクに品種改良してくらべものにならなくすればいい。
自分はヨーグルトじゃないんだから、ヨーグルトとくらべても意味がないと早く気づく。
ぷかぷかしているのが居心地悪いのなら、容器から出ていけばいい。
わたしはやっぱり世界の中心でありつづけようと思う。
自分の、うわずみの世界の中心にね。
今日も読んでくれてありがとうございます。
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