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過剰な気遣いを減らす

ズレ漫才といえばオードリー。
ズレ気遣いといえば、わたし。

前者は人を笑わせ喜ばせるが、後者は残念ながらなんのプラスにもならないどころか時としてマイナスである。

このズレた気遣い、オードリーのように芸へと昇華できないものだろうか…。

ズレた気遣いとは、
気を遣わなくてよいところで気を遣い、なにも生み出さないうえにただつかれる
気を遣うべきところで遣えず、変な空気になる
相手の気遣いにその場ではなく時間差で気づく
ゆえに感謝の意を示すタイミングも失う

この空振りだらけ、もう少し改善できないものだろうか。
空振りだって体力使うんだから、どうせ消費するなら当てて成果出していきたいじゃないの。
ホームランやヒットは打てなくても、最初はぼてぼてのゴロでもいいからさ。当てたいのよ。

∽∽∽

気遣いとはまったく関係のない話題で「結果が出ていないのにプロセスを(ドヤ顔で)語るな」と夫から指摘されたばかりなのだが、noteぐらい許してよ。
noteはわたしの公開秘密基地みたいなもんなんだから。

人からみればわたしは「ときどきなに食わぬ顔で場の空気を凍りつかせる人」であり、「ときどき悪気なく人の心のかさぶたを剥がしてしまう人」である。そして「最悪、人を怒らせてしまう人」だ。
(…あらためて文章にしてみると、なんてタチが悪い!)

これはズレた気遣いパターン2の「気を遣うべきところで遣えない」に該当する。

しかしふだんは気遣いをしているつもりなのだ。これでも。

ただ、このところちょっと、ある種の気遣いを減らしていこうかと思うに至っている。
というか、たぶんズレているからやめてもいいのでは?とうっすら気づいてきた。多かれ少なかれ勇気は要るけれど。

∽∽∽

今わたしは実家で生活している。
人生の3連休とでもいったところだろうか。
その経緯は今日の話の本筋ではないため、ここでは省こう。

ふだんは夫とふたり暮らしだが、実家に帰ると一気に5人家族となる。
実家の家族はわたしの人間関係のなかでもっとも気心知れた部類の人たちであるといっても、気遣いゼロですむか?と問われれば答えはNOだ。

そりゃそうだろう。
今も家族であることに変わりはないが、今はもう同居人ではなく、わたしは「一時的に生活させていただいている」身なのだから。
ネオ居候といったところで、大きな顔はできない。

家族みなそれぞれ仕事も違う。
朝起きる時間も違えば、出勤する時間も違う。
帰宅する時間も異なり、寝る時間もばらばら。
休日も合わない。

それでも絶妙なバランスで成り立っているみんなの日常生活のなかに、わたしという非日常がひょっこりはんしている。

お風呂の時間も、食事の量も、休日の予定も、きっとみんなの日常とはズレたものになっているはずだ。

わたしはできるだけみなの日常生活の妨げとならないよう合間をみて風呂に入り、ごはんのおかわりも遠慮して気持ち少なめにし、休日の予定は透明にしている。声がかかれば出動するし、かからなければ自宅警備に勤しむ。

今日もわたしはこれから帰ってくる妹のために、また夕飯の開始時刻を予測して、絶妙なタイミングで風呂に入ったつもりだった。

いつもなら長風呂するが、あとが詰まっているためさっと切り上げる。

しかしわりと急いで出てきたというのに、夕飯がもうスタートしていた。
気分屋の母いわく「おなか減ったから先に食べはじめた」らしい。

あっ。
なんかもうそこまでわたしも気を遣わなくてよいのかもしれないと、諦めの電流が体じゅうを走った。

∽∽∽

家族への気遣いは、ネオ居候だけが理由ではない。

社会に出る、結婚する、家事をする…
今までわからなかった父や母の苦労を、自分も同じ立場を経験することで少し理解できるようになったがゆえの成長的な一面もある。

たとえば我が家では家事の9割以上が母任せであるため、1%でも軽減できたらなと思うし。
組織人として毎日へとへとになって帰ってくる妹が、ふっとグチのひとつでも吐き出せる存在でありたいと思うし。

人として成長したがゆえにできるようになった気遣いだが、完璧ではもちろんないのだ。
そして完璧にできるようにならない。永遠に。

…うーん。
また完璧を求めてしまっていたみたいだ。

どうせわたしのはズレ気遣いだし、みんなだって気を遣いながらもあるラインからは自分を優先しているのだから、わたしもわたしのフィールドをもうすこし広くしたっていいのかなと。

だからこれからは、もうすこしマイペースに過ごしてみよう。
絶妙なバランスをわたしも探ってみよう。

とりあえず、お風呂の時間から。



今日も読んでくれてありがとうございます。
あなたが最近やめた気遣いは、なんですか?

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