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「できなくなったこと」を手放しながら取り戻しにいってみる

笹の葉さーらさらー
のきばに揺れる
屋根までとんで
こわれて消えた

おかしいな。
七夕の歌がしゃぼん玉の歌にかわってしまう。

7月7日。
ああ、そういや友人の誕生日だ。
「誕生日おめでとう!楽しい夜を!」
「サンキュー!今朝8時まで地元で飲んだわ!今も飲んでる!」
「相変わらず元気だねー、楽しんで!」
「元気ないわ!もうオジサンよ!」

…元気ねえ。
わたしって元気なくなっちゃったのかしら。
それとも、ただ変わっただけなのかしら。

休日のもったいない過ごし方

「せっかくの休みなのに家で過ごすなんてもったいない」
こう思う人は少なくないと思う。

ちょっと小旅行に出かけるとか。
気になっていたカフェで本を読むとか、美術館で感性を刺激するとか?
運動がてら散歩、ジムで汗を流す、温泉、サウナ…。
SNSを開けば、朝から晩まで充実した休日を過ごす人たちの様子が次から次へ流れてくる。休日のSNSはまぶしすぎる。

「せっかくの休みなのに家で過ごすなんてもったいない」
わたしもそう思っていた。2019年までは。
2020年、COVID-19によってわたしたちの行動は大きく制限された。
けれど、わたしの行動を制限したのはそれだけじゃなくて。一時的ではあるけれど職を失ったのと、しんどい人間関係が重なって、「出かけよう」という気力がなくなってしまった。

世間が落ち着けば、出かけたい欲も戻ってくるだろうと思っていたけれど、もうぼちぼち落ち着いてきた2023年7月現在もせっかくの休みを自宅に引きこもって過ごす、もったいない週末が続いている。

行こうと思っていたイベントも、前日に気持ちが高ぶらないどころか面倒くさくなって行く気になれなくなり、チケット代を無駄にしたことは一度や二度ではない。

チケットを買うときはあんなにわくわくするのに。
それでもチケット代が5,000円を超えたらちゃんと行くんだから、たちが悪い。金額の高低に関わらず、楽しみには変わりなかったはずだ。

変わったのか、失ったのか

もうひとつ、この数年間で離れてしまったものがある。
小説だ。

本自体は月に数冊、読むけれど、どれも実用書ばかり。
寝るのも忘れて貪るように読んでいた小説の類に、今は手が伸びない。

長い文章を読む気力・体力がなくなったのか。
感情が揺さぶられるのをなんとなく避けている気もするし。
どちらにしても、小説から離れてしまった。

…高校時代、彼氏にフラれて寄ったビレッジバンガードで何気なく手にとった1冊の本。本を読めばこんなにも現実逃避できるのかと、授業中も当てられたことに気づかないぐらい読みふけっていたというのに。

自分の人生の大きな1ピースが失われたような、喪失感。

そう。
「変わった」といえばまあ、聞こえはいいけれど、
あんなに楽しかったことが、自分の生活に確実にうるおいを与えてくれていたことが、「できなくなってしまった」と思うと、不安なのだ。

時間が経ったらまた戻ってきてくれるんだろうか。
時間が経ったらふっ切れるんだろうか。
時間が経てば経つほど、「いつまでこのままなんだろう」と焦る。

「人間変わっていくものだから」とも受け入れられない。
でも「できなくなった」とも受け入れたくない。
嫌だ嫌だの宙ぶらりん。

そんなふうにぐじぐじしているから、
不用意に休日SNSを開けば「ほらほら、おまえにはできないだろう」と、そこに投稿された写真で頬をペチペチ叩かれるようで、自然と歯を食いしばってしまう。

手放すなり、取り戻すなり

「なるようになるさ」と、執着を手放せたらいちばん楽なんだろうけれど、それが簡単にできれば苦労しない。

手放したい。
でもわたしはやっぱり、取り戻しもしたい。

今はどん底だったあの頃の延長線ではないし、延長戦でもない。
あの頃とは別の闘いをしているのだ。だって職も変わった、住む場所も変わった、人間関係も変わったのだから。

そしてまた「どんなに細くても気持ちを切らさなければ、気持ちに則った行動ができるものだ」とも気づいた。
「あがく」とも形容できる。

筋トレや散歩が続かないにしても「運動しなきゃ」と思っている人は、きっと駅ではエスカレーターじゃなく階段を使うように。

小さなことだけれど、わたしもスーパーに行くにしても車ではなく歩いていくようにしている。
先日、道中で見つけた和菓子屋さんにふらっと入り、水まんじゅうを買って帰った。ちょっとていねいに夏を感じられたような気がして、「あ、わたしまだ大丈夫だ」と思えた。

今日は自宅で短編の小説を読んでいる。

手放しながら、取り戻す。
気持ちを切らさず、できることから。

来週のイベント、行けるといいな。

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