今年のお盆はなんだかすごいって話 〜亡き祖父にまつわる回想
祖父は、今から8年前、わたしが大学を卒業する2011年元旦の午後2時、みなが見守る中、静かに息を引き取った。正月の真っ昼間に親族が総集合した場で亡くなるとは、何とも天晴れなじいちゃんである。
ここのところ、なぜかそのじいちゃんのことが想い出されてならない。
遺された手記を読みながら、なぜか涙が止まらない。
どうしてだ、今ごろになって。おかしい。
じいちゃんは、2歳で生みの母親と死別している。
小学校に上がってすぐ父親が第二次世界大戦に出征してしまった後、認知症が進んだ父方祖母の世話をするため、疎開先から神戸に呼び戻される。その後、祖母を看取り、天涯孤独を味わいながら空襲の中を逃げ回る。
若干20歳にして、苦労をする中で導きがあり、悟りを得て天理教に入信。裸一貫で布教に出て、多くの人を導き、約10年で教会を設立する。
まさに火の玉みたいな人だった。強烈。
そして言うに言えない、壮絶な苦労人生を送っている。
さらに後年には、運転するマイクロバスがJR列車と衝突するという事故を起こし、3名が即死。自らの手によって最愛の妻を失うという経験をする。
自らも瀕死の重傷を負いながら、そこから生還してきた不死身じいちゃん。
刑事裁判の判決が言い渡される日、孫が生まれてオシメを干すのに邪魔だろうと庭の木を切り「これでわしがおらんようになっても大丈夫や」と言い残して出廷。執行猶予がつくと聞いたときには、どんな心境だったのだろう。
その祖父が遺した手記を読んでいて、涙が止まらない。
不幸にも父は3度目の結婚をしました。私が中学一年の時です。一番生意気盛りの時で継母を随分困らせたと思います。六角(※父の後妻の家)へ入り婿のようにして入り込み、親子四人で暮らしていました。
母方にも小さな連れ子がいて、合体して四人家族になったらしい。
今でいうステップファミリーということになる。
因縁のなすわざと申しましょうか、母と私は合いません。母も母とて父に、あの子も私の子や、もっと優しくしてやらねば…と陰では話しているのですが、いざ私が「ただいま」と家へ帰ってくると、そんな心は霧散して顔を見るなりガミガミ、イライラして心とは反対の嫌味を一杯ぶつけるのだそうです。何かに突き動かされる様にです。私も私とて一層反発しました。親がもう少し優しい親なら、親らしい親なら、私も子として親に沿うのに、親が悪い、親が悪いと向こうばかりを責めておりました。いつも波風の立つのは私のことでした。
こういう家族の悩み、前職中もそれ以外でも本当にたくさん聞いたなぁ。
こうしなくちゃと分かってはいるのに、どういう訳かうまくできない。
所詮寄合世帯、私がいなければ家は治まるだろうと思って中学卒業してすぐに家を出ました。いったんは就職しましたが、導きがあって修養科(※天理の学校のこと)を了え、いろいろと先生方から良いお話を聞かせていただいて、自分も布教させて貰おうと一人で神戸へ出て来ました。
じいちゃんは中学を卒業するころ、成績が良かったので校長が特別にある企業の要職につける進路を斡旋しようとしてくれたらしい。しかし神の采配というべきか、受ければ通るようにしてあった試験を当日急病になりドタキャン。しばらくは納得がいかず、ほかのところに就職したりして一般的な幸せを求めるも、だんだんと自分の運命を真に拓く道とは何かを見つめてゆく。
毎日毎日汚いハッピに下駄履き姿で にをいがけ(※布教)に歩きました。が、誰一人相手にしてくれません。それでもやめる訳にはいかず、トボトボと歩き続けました。ある日、兵庫駅の付近で洋服屋のウィンドウに私の姿が映っているのが目に入りました。最初は何気なく見ていましたが、何と汚い男だろう、ヒゲはぼうぼう、ハッピはよれよれ、ズボンはつぎはぎの汚い物、それに素足で下駄、どこのルンペン(※ホームレス)だろうーと。アッこれが今の私の姿なのだと気がつきました。びっくりしました。心の中では自分はきれいにしている心算でしたが現実はこれです。
次の瞬間、ハッと気がつきました。体裁構いのこの私がよくもこんな姿で平気で神戸の街を歩いているなあー。以前新聞社へ勤めていた頃は背広にネクタイ、髪はポマードをつけて七三に分け、靴は新品、人間の中身は無いのに服装ばかり気にしていたのに、よくもこんなに変わったなあー。そうだ、これはあのお母さんのお陰だ。今迄お母さんが悪い、もっと親らしくしてくれればよいのにと不足ばっかり思っていた。が考えてみるとお母さんが、わざと悪役を演じてくれたお陰で私は体裁より大切なものができ、こうして布教に歩くまでになった。もしお母さんが本当に優しかったら、若いのに天理教になんかならず、勉強して大学へでも行って世間一般の人のようにしてくれていただろう。もし生みの親が生きていたら、さぞかし大事に大切に過保護に育てられていただろうに、厳しくしてくれたお陰で今の道を通っている。恩人なのだ。今迄仇のように思って本当に申し訳なかった。お許しくださいと、傍にあった電柱の陰から西の方を向いて泣いてお詫びをしました。もうこれからはどんなにされても、低く低くなりぴったり添って立てきって通りますと堅く心に誓いました。
わざと悪役を演じてくれた母…なんという悟りだ。
これが60年以上前の人の感覚である。
じいちゃんは早くに実母を亡くし「人の顔色を窺って育った」と言っていた。晩年、お酒を飲むと口が悪くなるところがあった。心に癒えぬ寂しさを抱えた人だったのだろう。だからプライドを高く持つことで自分を守っていたようなところがあった。そんなじいちゃんが電柱の陰から顔をしわくちゃにして泣く姿がなぜか私には容易に想像できた。
それからはお母さんには信仰がありませんが、私の方には恩人!恩人!と思い、どんなに無理を云われても添わせていただくように、家に帰りましても、せめて按摩でもさせて貰おうと背中をさわるとイランと一声、でも辛抱強くさすらせて貰う。出て行けと言われるとハイといって表から出て行き、裏から入ってくる。少しでもお金があれば、母の好きな物を買って帰るという様に徹底して添わせていただいた。
じいちゃんが悟ったのは、目に見えぬ魂の世界を生きることだったと思う。
人は生まれてきた環境、育った環境、結婚・離婚、事故に災難、人生で起きる様々なことをどうにもならないこととして嘆く。
そして「相手がこうであったなら…」と外に原因と責任と追いやって、被害者のつもりで生きている。
その目に見える世界から一歩外に出る。そこに神意、真意を観る。
自分の人生に起きることすべてを自らの魂の道として受け容れてゆく。そうすると、すべてが感謝に変わる。
じいちゃんが自分の人生をとおして、身体を張って教えてくれたことだ。
何年かして父が言うのに、お前も少し因縁が切れたなーとしみじみと話すのです。どうしてと聞くと、お前が帰ってくると家は貧乏するというのです。何故かと聞くとお母さんはお前の顔を見ると、何かしてやりたくて、近所の店から買って来てやってしまう。そこまでしなくてもよいものをと普段は話していても、「ただいま」といってお前の顔を見ると、あれもやろうこれもやろうと何もかもやってしまう。お前が帰ると借金が出来るというのです。以前とは全く逆になりました。
最近ではスピリチュアルな話が世間にも増えたが、頭でその世界を理解して「悟ったつもり」になることは誰でもできるのかもしれない。
しかしその実践となるとこれがなかなか難しい、特に家族関係に関しては。
向こうが悪い向こうが悪いと思っていたら何時迄も仇同士でしたが、こちらが心の底から改心しますと一遍に形勢が逆転したのです。それから通らせていただいて後、母は直腸ガンになり最期まで看病させていただきました。下の世話を付ききりで何ヶ月かさせていただきました。今のように紙オムツが無かった時代ですので、布のオムツを川で洗濯して田圃で干して、毎夜毎夜傍につきっきりで寝ました。夜中に七、八度オムツを取り替えるのです。それでも喜んでさせていただきました。亡くなる二、三日前に私の手を握りお前にこんなに世話になるとは思わなかった。有難うと涙をこぼして礼を言って下さいました。お母さんの熱い涙を手の甲で受けた時、よくぞ天理教になっていたなあー、世間並で通っていたら、遠くからザマアミロとぐらいしか言わない人間になっていただろう。お道に入れていただいたお陰で少しでも親孝行をさせていただけたと天に心からお礼を申し上げました。
世間で言われているような金や物で満たされるレベルの幸せで満足すんな。
生前じいちゃんが言っていたことの意味が、今になって染み入るのだ。
ボロをまとって布教に出て、じいちゃんが人に説いていたことは何だったのだろう。着の身着のままでその日食べる物にも困っているような人の話の、何に感化されて人はじいちゃんについていったのだろう。
そして、人生を変えようと布教に出たり他人を助けたりすることはできても、身内との関係を自分から良くすることは、なかなか難しかったりする。
考えれば考えるほど、超越している。
徹底的に執着を取り去った先にじいちゃんが見出した、魂の真実。
これが尊くて泣けるのである。
あるいは、その尊さをわたしがようやく理解したことで、おじいちゃんの魂が泣いているのかもしれない。
自覚はなかったが因縁とは面白いもので、わたしは家族の問題に正面からぶつかる仕事を選び、日々それを天職と感じながらやっていた。特にファミリー・チェーン(家族の連鎖)というものに強い関心があって、一時はそれこそ日本で一番これを勉強しているんじゃないかというぐらい追求していた。
祖父が憑依したような人生を送っていたとすら言える。
自己啓発やスピリチュアル界でよく聞く話に、引き寄せの法則とか、この現実は自分の思考が創っているというのがある。
じいちゃんは、被害者意識から脱却し、自分の人生を引き受けて生きるということを教えてくれたが、その結果、わたしたち子孫は、間違いなく家族の問題からほぼ解放されて生きることができている。
そのじいちゃんの遺志を自然と継ぎたいと思ってきたし、そう自分が思えば霊的共同作業とでもいうような応援があちら側から入ってくるのを感じる。
現実を創るのはどうやら自分だけ、一代限りでもないらしい。
そう想うと、自分たちがどう生き、何をどう次世代に遺すのかということは、本当にたくさんのこれまでのご先祖様たちとの共同作業だと言える。
その共同作業をするのにあたって、現代に生まれた私たちが先代と同じことをやっていては進化がない。遺志は継いで形を捨てるというイノベーションが必要になってくる。
その中で世の中を良くしなければならない(=現状は良くない)という想念を手放すということも、きっとその一つだろう。詳しくはまた。
この感覚は新しい。
なんなんだ、今年のお盆は。
どんどんやってくる、変化の波にわくわくしている。
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