マインド(思考)にニュートラル(中庸)はない
中庸という言葉が流行っていますね。
中庸でいると、バランス良く生きて、物事に右往左往しなくなるという
意味で、流行っているのですが
いつの時代の誰を基準にしたバランスやねん(ツッコミ)
人生がうまくいかないのは
自分のバランスが悪いんじゃないかと
自分を責める必要もありません
なぜなら、全ての人の思考は
偏っているからです。(エクストリーム)
ニュートラルな思考の人間なんて
いないからです。
思考でバランスを取ろうとしても
いろんな出来事は起こります。
バランスを崩してきます(笑)
生きていればチャレンジはつきものです。
むしろ私たちみんないろんなチャレンジしにきているので。
中庸、つまりはニュートラルで生きたらバランス良くなるよって
いろんなとこで言ってるんだけど、
中庸:ニュートラルっていうのは元は
「タオ」からきた道教の教えなのですが
道教には他の宗教にあるような「教える本」がありません。
タオの本というのは禅問答でできています。
タオというのは「道」とかきますが、
マインド(思考)から理解をしても、それは思考でしかない
そのような理由から、
思考を超えた「道」
つまりは「ただそこにそうあれよ」というエッセンスが込められています。
よく誤解されがちなのが
「道=修行」
でもありません。
言葉として教えることは
必ず思考や観念を介して伝わるので、
そのようなことを避けるため
行為を通じて、体験と状態を通じて、
マインドを捉えることこそが
「タオ」そのものです。
一方で、マインド「思考」には
エクストリームしか存在しません。
私たちの思考ってかなり極端なんです。
全ての思考にニュートラルがないとしれば、
他者の行為も、許せてきませんか
思考が存在している時
必ずそこには
評価やジャッジが存在しています。
それがマインドの性質だからです。
ですから、ニュートラルな思考というのは
実は
存在しません。
ガーン( ̄^ ̄)
存在できないんですね。
だからどんなに中庸でいよう、
と頑張ったところで
思考活動で「中庸」でいようとしてるうちは
中庸ではありません
人生のチャレンジは引き続きやってきます。
唯一
ニュートラルでいる状態というのは
思考を完全に捉えている時
つまり
自分の思考の「エクストリーム」「ジャッジ」「評価」に気が付いている時です。
人生のチャレンジがやってきた時、
マインドのエクストリームに気が付いていることで
問題を対処したり、
問題にドラマをくっつけてややこしくせず、解決したりすることができます。
危険を回避したり、
状況を変化させたり、
そう言ったことが
状況を冷静的に客観的に対処できます。
人生のバランスを取るには
思考のバランスを取ることではなくて
思考に気がつくこと
思考に気がつけば人生は
全て最適なバランスで成り立っているものと理解できてきます