ソーケーよりオーケー
先生「はい、じゃあちょっとした語彙のテストをするから、このプリントやってみてね。一枚終わったらちゃんこ鍋のように次を渡していくからね」
生徒A「先生、それはわんこそばです」
生徒B「わんこそばってなに? そばの中にわんこが入ってるの?」
生徒C「それホット・ドッグに犬が入ってるっていってるようなものよ。まったく。」
彼らは疲れている。35度を超える室内で過酷な夏期講座を終えた後に一息つくことさえ許されずに授業や模試をこなす日々が延々と続いている。なぜってこのクラスの生徒たちはみな間もなく日本での高校受験というモンスターと戦うことになるからだ。大学受験をラスボスとするならば高校受験はその子分みたいなものなのだけど、子分を倒すのだってそれなりにゲームの攻略が必要になる。相手の癖とパターンを読み、攻撃を地道に交わしながら弱点が表出するのを待つ……攻めるよりも固い守りが勝利を近づける。
そんな風にして好むと好まざるとにかかわらずロールプレイング・ゲームに放り込まれた子どもたちは気の毒である。学校教育とか受験とかいうものは9割の子どもには向いていないにも関わらず皆が等しく横並びに通過しなければならず、頼んでもいないのに2だの5だの合格だの不合格だの評価を付けられる。その上勉強が苦手な子どもほど塾に行くべきだなんていう風潮があるものだから、塾という機関は小さな苗に立派な葉をつけてあたかも成長したかのように見せるのがうまい温室みたいなものだ。しかも膨大な時間とお金がかかる。
しかし仮に塾が子どもの不幸生産工場なのだとしたら、なぜあたかも価値があるかの如く大手を振って社会を闊歩しているのだろうか? あの中で一体に何が行われているのだろうか? 私が塾という世界の中に潜入してみたのはそんな物臭休めの発想に端を発したものであった。
潜入してみると、ここでは私の知らない価値基準の基に知らない言語を話す人々が生活をしていることがわかった。というのも子どもや保護者の口からやたらと「ソーケー、ソーケー」と音がする。
「お子様は宿題もがんばって取り組んでいるようですね」
「ソーケーソーケー」
「前回の模試は偏差値60にちょっと届かないくらいでしたから、次回は超えるといいですね」
「ソーケーソーケー」
「自分がどこまで理解できていてどこの理解が不足しているか自己分析できるようになるといいですね」
「ソーケーソーケー」
塾と呼ばれる世界ではソーケーについての厳格な規律が定められている。まずソーケーの価値を尋ねてはならない。それは全く無条件に価値のあるものなのだ。次にソーケーをみんなが手に入れられるわけではないと言ってはいけない。それは塾に投資をする人みんなにチャンスがあるように見せなければならない。そして最後に、塾講師というものはソーケーを手玉に取っているかの如く振る舞わなければならない。
子供時代に塾に通った経験もほとんどなくソーケーにも無縁だった私は塾という閉じられた世界で繰り広げられるソーケー現象を物珍しいものとして眺める部外者であり続けている。私にとっては生徒がソーケーに行きたがろうがオーケーに行きたがろうがそれ自体に興味はないのであり、ただ彼らが望む場所に到達できるように手法を伝授するだけである。あくまでも合理的に。
もう少し一般化して国語教師として言えることは、国語の成績と人生の幸不幸の間におそらく相関はない。しかし言語的な喋りが上手いほうが人生全体として得をすることが多いのではないかと思う。そういう意味では冒頭の生徒のように私の小ボケ「ちゃんこ鍋」にちゃんとツッコんでくれて、犬だのホットドックだのと展開してくれる彼らはもうすでにハナマルである。彼らがどこの高校に行こうがどこの大学に行こうが、彼らの喋り力は身体の一部として肩書以上に彼らの人生を彩るだろう。それでいいのだ。