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「人間を幸福にしない日本というシステム」(カレル・ヴァン・ウォルフレン著)の中の私たち

マレーシアから帰国した頃、日本社会に批判的なこんな類の本ばかり読んでいた。この本の発行は1994年。そしたら「いまだに人間を幸福にしない日本というシステム」(同上著者)という本が2013年に出版されているのを知って驚いている。書評によると、最初の本の発行から、日本はちっとも変わっていないという内容らしい。

最初の本の詳細は覚えていないが、「日本人のしかたがないの思想」(そう言ってあらゆることを諦める国民性)と「日本の権力構造」(その責任体制の曖昧さ。第二次世界大戦の責任者を探っていったら、誰にも辿り着かなかった。鶏のトサカにあたる部分が見当たらない。それは現代日本の権力構造にも当てはまる。そんな内容だった、と思う)

そもそも日本は先の戦争について、きちんと総括もできていない。何でも曖昧、うやむやにしてやり過ごす。ドイツに全体主義が生まれた理由を徹底的に研究したハンナ・アーレントのような政治哲学者が日本に現れなかったのは何故だろう。そして両国の戦後処理の大きな違い。

日本社会のあり方がよく言われる。

近代市民が育っていないからだとか。日本人は自分達で民主主義を勝ち取っていない、だから自由とか権利とかの大切さを肌感覚で理解できないとか。それが奪われた時の苦しみを知らないとか。国民、住民はいるが市民がいない。だから「個」が育っていない。個の存在が弱すぎる。というより、多くの人は同調圧力や調和という名の下に個を埋没させることで、生き抜いてきた、とか。

説明責任Accountability とかコンプライアンスCompliance とか多様性Diversityとか包括的Inclusiveとかの外国語のアイディアが日本社会に入ってきているけど、どれほどの日本人がこれらの概念を理解し、社会の中で真摯に実践しようとしているだろうか。

私には、政治も会社も組織も社会の制度そのものも、そして何より教育も、それらの概念に基づいて透明性のある社会を目指そうとしているようには思えない。相変わらず旧態依然の発想でCoreの部分は高齢男性が牛耳っているとしか思えない。教科書検定が何故いまだにあるのか、理解できない。教える内容まで国が決定する、戦前の体制と似てないか?

働いているお母さんが職場でも家でも幸福じゃないなんて、私が苦しんでいた頃とあまり変わってないなんて、正直愕然とする思いだ。恐らく世の男性達も同じように不幸を味わっているのだろうが。

今居心地の悪さを感じている人。それは正常な感覚の反応だと思う。日本社会が特異なのだから。最近アメリカ人と結婚している次女が、日本で2年間働いてアメリカに戻っていった。彼女は100ヶ国以上の支社、50000人以上の社員を持つグローバル会社の日本法人で働いていた。

彼女が言うには、日本法人だけが異質だったと言っていた。はっきり言って、日本法人は必要ないと感じたそうだ。日本人の社員は『外資系』で働いていること自体にプライドを持っているだけで、中身は典型的な日本人のまま。内向き志向が強いため、外国人スタッフは日本人スタッフに合わせるように働いていると。その方が摩擦がすくないと、外国人スタッフが先に気を回して感じ取っているからだそうだ。外国人の忖度❗️グローバルカンパニーとは名ばかりで、日本支社だけが日本のやり方を踏襲した日本の会社。

彼女の夫も日本の大手製薬会社で働いたが同じことを言っていた。会議のための会議(のための会議、、、)の連続、効率の悪い業務遂行、自分の意見を明確にしない社員、そして何より責任を取りたがらない、ならまだしも責任を押し付ける上司。結果、それを恐れて何も決められない。

長女は、偶然にもその製薬会社のアメリカ法人で働いている。だが社風も意思決定の仕方も日本のそれとは全く違うらしい。もちろんアメリカにも男女差別はあるそうだ。noteで「女性社員として管理職を目指す理由は、自分で時間設定ができるから」と言っている投稿記事があった。長女も同じことを言っていた。だから4人の子育てをしながら、彼女はDirector のポジションをつかんだ。彼女のチームでは、努めてdiversity やinclusive について話し合うようにしていると言っていた。オンライン会議には、彼女の1歳半の末っ子がたびたび登場するらしい。

長女と次女の会社には、”core time”コアタイムというシステムがあって、一定の時間帯(例えば10時から15時の間)に在席していれば、後の時間は本人の裁量で決められるらしい。working motherには、うれしいシステムだ。

今自分がいる状況が辛い人、とりわけ女性たち。その辛さはまともな感覚だから感じるのだ。日本は世界の潮流からどんどん取り残されている。高齢男性に50年100年先のことが、実感として語れるとは思えない(?) 未来は若者に託したい。「しかたがない」と諦めずに、自分の意見を表明しよう。冷静に、論理的に、分かりやすい言葉で。表明しないと、あなたの辛さや居心地の悪さが無かったことにされてしまう。

100年前、あの暗い時代に生き、23歳でこの世を去った金子文子の言葉に励まされる。「何が私をこうさせたか」(獄中手記ー金子文子著)より

「たとい私たちが社会に理想を持てないとしても、私達自身には私達自身の真の仕事がありうると考えたことだ。それが成就しようとしまいと私達の関したことではない。私達はただこれが真の仕事だと思うことをすればよい。それが、そういう仕事をすることが、私達自身の真の生活である。私はそれをしたい。それをすることによって、私たちの生活が今ただちに私達と一緒にある。遠い彼方に理想の目標をおくようなものではない」





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