死を赦して、生きる。ー「泣きかたをわすれていた」よりー
終戦の年に生まれた1人の女性の生きざまが、確かな質量をもって感じられた。
過酷な人生と、それによって培われた自律性によって、冬子さんはとても強くてかっこいい、周囲の人々があこがれる女性となった。その裏には、決して表には出さへん溢れるほどの涙を抱えている。冬子さんは、自ら泣きかたをわすれた。
子どものころの母との良い思い出と、苦しい思い出。
大人の事情を推し量って、素直に表現できずに殺されたたくさんの感情。
苦しい思い出の影があまりにも色濃くて、ささやかで優しい思い出がどこまでも大切で愛おしいものになる。
思い出は、人間を縛る。それが良いものでも悪いものでも。
冬子さんは、母よりも先に死ぬことをまだ小さい頃から極度に恐れ、許さなかった。
絶対に死ぬことはできない。
自分のためではなく、母のために。
認知症になって日々衰退していく母に、絵本を読み聞かせるシーンがある。
冬子さんは、母が幼い自分に絵本を読み聞かせてくれた遠い記憶に、
大人になった自分が老いた母に絵本を読み聞かせる現在をなぞらえる。
もう過去には戻れない。戻りたいとも思わない。ただ、母と過ごせる残り少ない時間を大切に過ごしたい。
切なくて、でも温かくて微笑ましい場面のようにも思う。でも、私はある種強迫めいたものを感じた。絶対に悔いをのこしてはならない。自分に与えられた使命を全うするため、懸命に生きなければならない。「しなければならない」で覆いつくされた人生を生きる冬子さんは、いつもどこか窮屈そうだった。
72年間。冬子さんは、身近な、大切な人の死を経験してきた。その度に、死んではならない、死ぬことは決して許されないという自分にかけた呪いを強めてきた。
そして、「いつでも死ねる」、そう思ったとき、冬子さんはそれまでのしがらみから解き放たれて、自由になって、涙を流した。死を自分に赦して、泣くことを許した。
いつかは死ねると思うから、人は生きていける。そして、生きている限り、人は、生きていくしかない。
物語全体に通底するこのメッセージは、これからの私の道標になるような気がする。