えいぷりるは残酷な季節なんでとりとめもなく叫びます、がおー。(もしくは、過去との対話を如何にして為すべきか)
前文 理解を拒む文章だと分からせるための文
四月は最も残酷な季節なわけで、この時期には「大学の新入生にオススメする文庫新書紹介」みたいなのが流行りだします。これはもう、北海道の大学生たちが5月に円山公園でジンギスカンするようなもので、そういう暦なんだと適切に了解すべきでしょう。
雪が溶けたら花が咲く。梅の見頃を蹂躙するかたちで、桜の開花宣言がやってくる。そういう風物詩なんですよね、そんな感じのことをエリオットとフレイザーが言ってました。
出版社や、切実に「教育を行いたい」と考えている大学教員たちが真摯にオススメするならいざ知らず、なぁにをスノッブどもが安っぽい「知」を贈与交換理論してふぁぼRTしてんねんとか、そういう謎カルトサークル作って悦ってる暇あったらライオンズクラブになんとかお呼ばれして駅前とかに掃除ボランティアしに行かんかいとか、そういうこと考えるような人間はもう駄目です、改めましょうね、そういう季節なんだと了解しないといけません。
ほら、たんぽぽが咲いてます。春ですね。楽しいですね、偽善家の読者さん。
本題 誰に聴かせるわけでもない語りかけとして
そういう季節。ざっと一日分のTLを遡れば、歴史学・歴史趣味的傾向を持つ人間であれば誰もが、「ぜひ新一年生にはEHカーの『歴史とは何か』を読んでほしいな」というツイートを見つけることが出来るでしょう。こんなもんはベランダ庭先に米粒ばらまいてりゃスズメがちゅんちゅんとやってくるくらいには『確定的』な現象です。ポテト若きもみんなカーと連呼してます。「ネタ」として見たらもうこすられすぎです。こすられすぎてもう球だ球。
スズメは生きるために米を食いに来ますが、歴史趣味者歴史学徒たちは、はてさて、どうして『歴史とは何か』を紹介するんでしょう? もちろん私も、大学教養時代を過ごしていた18歳当時。偉大すぎて輝いて見えていた西洋史学の教授陣が、一層の威光を放ちながら「EHカーを読みなさい」とのお言葉を下さったわけですから、ひゃっほい叫びながら読みました。ついでにマルク・ブロック『歴史のための弁明』も大学図書館から借りて来てです。
いや。
はい。
うん。
読んではいるんですよ?
けど、なんで『歴史とは何か』を紹介するんですかね?
歴史学のディシプリンを修養してきた人々のなかで、「歴史は現在と過去の対話である」というたぐいのフレーズを一度たりとも聞いたことがないっていう人はおそらくいないでしょう。ここでは日和ってごまかしてはいますけど、本心を言えば断言してしまいたい。それくらいEHカーは、『歴史とは何か』という著作は現代歴史学のコースにおいて絶対的な存在となっています。
史学史の講義がしたいわけでもなければ、史学史担当のポストを得たいとも思っちゃいないので大胆に省略しちゃいますが、アナール学派が、網野善彦が、逆説的に平泉澄がごく当然のように多くの「歴史の従事者」たちにあらましを了解されていることからも分かるように、EHカーや『歴史とは何か』ってものが「2021年現在に歴史するにあたって、当然、全員が受講して獲得しておかねばならない免許であるから」読まされているわけですよね。「今現在の歴史学が最高最善だと自惚れちゃあいないが、それ以前の歴史学ではあまりにも『見落とされてきたもの』が多すぎるから」、と。
歴史するってのはセンター試験で高得点を取るために暗記することを指してるんじゃあない。私たちが、歴史という「文字の発明以来数千年に渡って『現代』から他者として切り離されつつ統合されてきたもの」と真っ向から向き合う営為そのものこそが「歴史する」ってことなんだと、それを分からせるためにEHカー『歴史とは何か』を読ませているわけです。
幸か不幸か現代歴史学のカリキュラムはうまいこと機能しているようで、こうした感覚はアマチュア的に歴史を楽しんでいる人たちにもきちんと伝播し受容されているようです。
歴史で創作する方々は、たとえば歴史で漫画を書いている人たちはネームを切りながらこう考えます。「なんでこいつ、こういう動きをするんだろう」と。
彼ら彼女らがオリジナルのギャグ・コメディを書いていたなら絶対に考えないことですよね、その界隈の下手なつくり手は「話の都合として『ここで告白を聞き逃しておいてもらわないと仕方ないから』突如として主人公の耳が遠くなる」なんて卑怯な調整を行いますものね。けど歴史ものでそういうことやったら、少なくともキレ散らかす人が出てくるでしょう。「僕が私が考えた最強の『歴史』を読ませようとしてくんな」って。
私たちは、どうにかして人間に触れたい。
どうにかして制度や社会に触れてみたい。
そういった欲望って、たぶんきっと、「憧れのあの人に関するエピソードをいくつも積み重ねて恋に恋する」なんて女子中学生的なメソッドによって達成されるものではなくって、「ともに生きる人として、その人の人格を尊重する形で手を伸ばす」という真っ当すぎるくらい真っ当な方法論で達成されるべきものでしょう。
真っ向から向き合う。そんな単純なゴールは、相手が人間であってもついやり損なうような我々であるからこそ、歴史事象相手にはもっとずっとろくでもないやりかたでしくじってしまう。
たとえ2021年の我々がどれだけ「んな馬鹿げたことをしないでおくれ」と祈ったところで、ナポレオン・ボナパルトらはロシアへの遠征を企画し実行したわけですし、第二次大戦中おおくのユダヤ人たちが『消えて』いきました。その事実は変わりようがない。そして、2021年を生きる我々がどれだけ目を背けようとも、歴史事実というものは厳然たる存在感を伴いながら、私たちの袖を引いてこう呟く。
「見ろ」と。
であるからこそ、歴史修正主義者ってのは生まれてくるんでしょう?
歴史という概念が単なる「歴史的事実が集積したインフォメーションの総体」でしかなかったとしたら、我々がこれほどまでの規模で織田信長を女体化イケメン化して消費して遊ぶなんてこともなかったでしょう。
我々はどうしたって肉体からは離れられない。
神経が、眼球が、内臓が、口腔が、性器が、両脚が、指先が、脳みそが、心臓が、伝えてくる。
なにを?「『歴史』と銘打たれたこの情報は、私を興奮させる」と。
興奮、まさしく興奮なんですよね。『興味深い』という喜びから『恐ろしい』という絶望まで。紙に染み込んだインクのシミや、パソコンのモニターに映っている文字・映像問わない様々な表象が、我々を興奮させてくる。
これはもう、「大音量で『パープル・ヘイズ』を流される」のと同じことです。たとえばあなたがロック・ミュージックがお嫌いだとしても/だとしたら、まず間違いなくその爆音はあなたを苛立たせる。そういう耳と感性と上品さを持っている、持ってしまっている!
もしもあなたが自家用ジェットを所有していて、西海岸東海岸くらいは「ちょっとした出張」程度の感覚で移動できる経済力を持っていたとしたら、あなたにとってEPトムソンは「くだらないことを論じるやつ」だと思うかもしれません。
愛国者として日本史をやっている人だからこそ、「網野レフティw」と笑い「なぜ彼は日本史をやるんだ?」と真剣に疑問に思ってしまう。
わたしたちはもう、どうしようもないくらいに「わたし」でしかありえない。
であるからこそ、「客観的に歴史事実を積み重ねていく」なんてことが馬鹿げた夢物語でしかないと。歴史学というディシプリンを通ってきた先人たちはとっくのとうに気づいてしまっている。
どうしようもなく私はわたし的だ。そういった限界があるからこそ、「過去と真摯に誠実に向き合い、永遠の対話を続けていかねばならない」と。20世紀前半から半ばにかけて、歴史家たちは適切に理解していったわけです。
本題2 対話などよくも言えますねと壁に向かって叫ぶ
こんな死ぬほど読みにくい文章を、それでも耐えて読んできた人々なら。たぶんきっとこう思うはずでしょう。
「この文脈だと最初の疑問──なんで『歴史とは何か』を紹介するんですかね?という疑問と矛盾しないか?」と。
いや、いやいや。
岩波書店の回し者じゃあないですが、『歴史とは何か』は読むべきっすよ。
18歳の時に読んで以来再読もしてなければ本文の内容さえ一切覚えていない。唯一覚えているのは「歴史は現在と過去との絶えざる対話」云々のフレーズだけだし、うろ覚えでしかないし、わざわざ買ったり借りたりして「適切に引用しなくちゃな」とすら思わないくらいには適当な私ですが、価値ある著作だと理解していますから、読むべきっすよと私は言います。
そのうえで、再度質問します。
なんで『歴史とは何か』を紹介するんですかね?
その発言が『発話者自身に何を要請しているのか』をちゃんと理解して言ってます?
だいったいの人間は、幼稚園か小学校か具体的な時期は分かりませんが「うえーんおしっこ!」と泣いてるだけじゃ濡れたパンツとさよなら出来ないってことをある時期までには学んでいきますね。おもらしせずに済むには、手を上げて、先生を呼んで、「先生トイレ」と言って「先生はトイレじゃないよ」と返されなければいけないわけですよ。
また、だいったいの人間は「ちゃんとお片付けしなさい!」と叱る親が、「怒りをぶつけたい」から怒っているわけじゃあなくって「物が散乱した状況はケガをする可能性もあるし物を壊すリスクを高めてしまうからこそ、片付けるべきだと教えてくれている」のだと、ある段階から悟り始めますね。
我々は声帯を震わせて舌や唇でもって調声するだけでは「ものを語れない」し、耳の中のカタツムリちゃんを揺らすだけでは「ものを聞き取れない」わけです。
定型発達者であれば誰もが対話可能であるなんて。そう思い込んでらっしゃるのなら是非とも大学教養課程を受講してきてください。教育学基礎とか言語学概論とかいう名前がついたそのへんの講義があなたを揺さぶってくれるはずです。少なくともこの文章は、オーラル・コミュニケーションではないにしても、文章として見りゃあまりにも文法からの逸脱が多い文章ですよ?
それでもこの文章は「語りかけている」し、あなたは「なにかを聞き取っている」。なぜならこの文章は「なにかを語りかけるための手段としてのマニュアル」ってものに従って構成されているんで。良かったですね、私が幼稚園児時代から成長していて、あなたが幼稚園児時代から成長できていて。
つまるところ対話するためには「技法」が必要なんです。そのへん理解せずに「エターナル対話」とか言っていた人は、非常に危険な状態でした。寅さんの分を考えずにメロン切り分けて食べちゃうくらいには浅慮な振る舞いだったと、きちんと反省してください。
そのうえで、一緒に次の疑問文的絶叫をしちゃいましょう。
「過去と現在との絶えざる対話」って言われたって、いったいどうやって対話すりゃいいんですかね?????????
史料を丹念に読み解くってのがランケ史学的な対話の奥義でした。いや、いやぁ~~……流石に2021年に「それだけが対話のやり方です」って言われると困っちゃうんですよ。共有している常識だと思ってますんで、こっちは。
「わたしという観測者がどうしたって『見るものを歪めてしまう』のだと理解する」、いい感じです、歯ぁ磨いてリビングにまではやって来れましたね。でも今日はデートの日じゃないですか、はやく着替えてきてください。私もいま靴下探してるところです。
もう一度聞きますよ。あなたはどうやって私と対話するつもりなんですか?
浮気してるんじゃないかと問いただす恋人のように。私はひどく懐疑的です。
なぜって。「こういう場面でEHカーを紹介する人たち」って「歴史事象に関して『現代の道徳規範を当てはめて断罪してはならない』って言っちゃう人たち」だと思っているからです。本当にそれでいいんですか?
よりはっきりと言いましょう。本当に、その言い方で合ってると思います?
私たちの出会いって、もっとショッキングで、もっと運命的で、もっとシンプルだったじゃないですか。あなたは私に怯える──当然ですよ、ここでわたしがイタコってる【私】は「何百万もの人間が死んだ独ソ戦」を想定しているんですから、あなたはきちんと絶望しなくっちゃなりません。
道徳規範とやらで断罪する? んなものはニュルンベルク裁判ですでに仕出かされているじゃあないですか。いま現在考えるべき問題はもっとシンプルでもっとシビアです、あなたは私を見て、どう感じるんですか?
私という悲劇は「心躍る武勲譚」でしかないのでしょうか、「目をそむけたくなるような惨劇」でしかないのでしょうか。
端的に言いましょう、そんな単純な言葉でまとめてんじゃねえよ。
あなたが読んでいる私は「試験の解答欄に記入すれば3点もらえる知識」なんかじゃなくって、「かつて。数年の間に人々がさまざまな形で体験してきた恐怖・絶望・希望・憎悪・敵意・嘆き・嗤いである」のだと。
私はあなたに分かってもらいたい。
人生で初めて独ソ戦になりきりました。もちろんこれは私が異常性癖者だからこそやれた愚行でしかないんですけど。個人の実感としては意外と「生産的な」営為でしたよ、独ソ戦の気持ちが分かりました。どこかの数学者は「素数の気持ちが分かった」と語ったらしいですが、なんと奇遇な同感でしょうか。
それを踏まえて。何度も何度も訊いて恐縮ですがもう一度訊ねます、あなたはどうやって過去と対話するんですか?
もうこれ以上、インクのシミを数えるのはやめてくださいね。「呆れ返るほど繰り返された『絶えざる対話』とかいう決り文句を再生産する」なんて退屈なことは、私とあなたという関係性だけではなくあなたと別の誰かの「にこやかな会話を基盤とする関係性」の中にあっても、ひどく不誠実な行為なんだと、適切に理解すべきでしょう。
真剣に、真っ向から、「対話すること」の難しさに直面すべきですよ、僕らは。
率直に言いましょう、私もまた『今日的な「道徳」で断罪すべきでない』と考える人間のひとりです。であるからこそ、次のように適切に補足します。「それは良心を麻痺させ思考を途絶させる邪悪な裏切りだから」だと。
無論私は信じたい。ある人々が「断罪すべきでない」という発言を行うとき、最低限これくらいの【深さ】を言外に秘めているのだと。けど、正直いまの私には信じられないのです、世間の人々がそこまで【深い】かどうかってことが。
呉座氏の件に関する世間の態度は、【対話】っていう言葉の信頼性をおおいに下げるものだったと私は理解しています。我々は物を聞けていましたか、物を考えられていましたか、物を伝えられていましたか? 悲しいかな、「歴史界隈」を名乗ったり名乗らされたりしていた集団は、あのときちゃんと、言葉を発さなかったのです。あのときちゃんと言葉を聞き取れなかった。
「絶えざる対話」を「丹念に読み解く」程度のパフォーマンスあたりに水準を設定したところで、呉座氏の一件以来われわれは「丹念に読み解く」なんていうランケ実証主義歴史学的な手続きすら出来なかった落第生として、世間からは認められていますね。
そして、それはどうやら「呉座氏の件前後という試験の結果が悪かったからそう見られている」のではなく「以前からそのへんの能力が欠けていたからそう受け止められている」というのが事実なのだろうことも明らかになったかと思います。
様々なひとが、『歴史とは何か』を読むべきだと紹介している昨今。年度が変わったらこんなにもあっさりと昔のことを忘れてしまうのだろうかと、つい微笑ってしまうんですけれども。『歴史とは何か』を読むべきは果たして新入生たちだけでしょうかね。
いったいどのような技術を用いれば過去と対話できるのだろうか。
いったいどのような技術を用いれば現在と対話できるのだろうか。
これは非常に思弁的な難問であり、同時にあまりにも実際的な課題であり、そのうえでそうやすやすと答えが出せないイジワルな問題なんですよ。
そうして、残念ながら学部四年に修士二年という私の経験と体験から推測するに、多くの人はこの難問の存在にすら気づいていないと、そう断言せざるを得ません。「そんなことない」と反論したい方々には申し訳ないのですが、あなた方の『真人間的な』思考法の範疇からは、私がやったような「独ソ戦になりきる」というトンチキロジックは出てきやしないんです。
ええ、残念ながら。「歴史とは何か」ってことを、多くの人々は私ほど深く長く考えちゃいないんですよ。深く考えた結果が独ソ戦イタコなんですから、みくびらないで欲しいわね、ぷんすか。
このように指摘したうえで、最後の質問をさせてください。
対話って、辞書的な定義を引っ張って済ませられるほど「簡単なタスク」なんですか?
答えは聞いてませんし聞きません。どうぞお好きに「僕が考えた最高最前の対話法」を日々の言動の中でかもしだしちゃってください。失敗の連続でしょうが、なあに馴れれば快感ですよ。
こういうことについて悩み考えるのも、意外と楽しいですよ? というわけで本文章の結論は、次のとおりです。
なんで『歴史とは何か』を紹介するんですかね? この喜びは、まず我々が実践して見せびらかしちゃいましょうよ、それでこそ何よりも魅力的な口説き文句たりえますってば。クソダセえ「百万遍聞かされたネタ」を聞かされるよりかはよっぽどテンション上がります。
一挙手一投足を歴史的に振る舞ってみせる。狂人的な振る舞いに思われるかもしれませんが、意外と、そういうことが大事かもしれませんよ。Twitterでも歴史学的に振る舞う、これは歴史学の鍛錬として有効なハードワークですよ。もしよかったら是非。
どうすれば私たちは「歴史をする」ことが出来るんでしょう? 単なる言葉遊びだと思いますか? だからあなた方はしくじったんですよ。新年度からは頑張ってください。歴史とは何かを考えて、歴史とは何かを見定める。いい機会だと思って再考してみるには、四月という残酷な季節はうってつけの時期でしょう?
人文学で遊んでしまいましたね、てへへ失敗、これにて終了。雑な語りもこれでおしまいです。お疲れさまでした、ゆっくりお休み。
ところでちなみに、「対話のためにも独ソ戦になりきるメソッド」わりと真剣にオススメです。「フランス革命になりきる」とかやってみませんか、禅問答的な悦楽ありますよ。やってやって!【終】