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何もしないという贅沢


「余白」と名付けた静かな活動の話。


ふと、毎日使っているインターネットが気味悪く思えてしまうことがあった。

私はスマホやパソコンで日々、生活に必要な調べものをしたり、旅行やイベントへ出かけるための支払いをしたり、家計簿を付けたりしている。
日常は格段に便利に豊かになっている。

と同時に、何気なく入力したキーワードに引っ張られて求めてもいない広告が表示される頻度が顕著になった。

あなたの興味関心が高いのはこれでしょう。
こんな音楽を求めているでしょう。
こういう着こなし好きでしょう。
この価値観に共感できるでしょう。

まるで画面が私の分身のように語りかけてくるのだ。


日々活用している圧倒的な情報やサービスのほとんどはお金をかけずにアクセスすることができ、その多くには誰かしらの広告の意図がある。

だから、その代わりにウェブ上のあらゆるところでデータをとられている。という仕組みはわかっている。

それでもうっすらとした気味の悪さがあるのだ。

提案されたコンテンツにはもちろん良い出会いもたくさんあったが、合わないものに対して無視することにも一定のエネルギーは削がれてしまう。

インターネットは私の精神にこれ以上距離を詰めてこないでほしい。


自分のことは自分が一番よく知っているべきではないか?


ふとやってみたいことや新しいアイデアが浮かんだとき、

それはネットのAIに誘導されたものではないだろうか?

今の私の感性は本当に私自身のものだろうか?

受けている影響はポジティブなものであるか?

と不安を覚えるようになった。

その都度立ち止まって考えるようになった。


その習慣の果てに分かったことは、

良くも悪くも雑多なインプットが多すぎて、きっと脳が疲れている。

ということ。


いろいろな情報にあふれた現代で、物理的にも精神的にも静寂は贅沢品になった。

今まではせっかくの休日ならばと活発にいろいろなことに取り組んでいたけれど、
やりたいこと、やらなければいけないことから半日でも1時間でも強制的に離れてみることにした。

あえて作った「無」の時間で、
家事をすべて放棄してただ寝るだけで半日を潰してみた。
またあるときは、過去のラインや写真などを見ずに楽しかった思い出を頭の中で反芻→寝落ちした。
またあるときは、1時間部屋の窓辺でひなたぼっこをしたあとに手ぶらで散歩した。

ただただ、ぼうっとしていた。

この静寂がとても豊かな時間に感じられると同時に、不思議と創作意欲が湧いてきた。


私はいつも何かをつくるときはなるべく雑念が邪魔をしない環境で没頭したいと思う方だ。

その(言い訳の)せいで、ずっとなんとなく取りかかれていなかった小さなデザインの自主制作があった。

今回の一連の「ぼうっとする」活動の後、急に3時間も自主制作に楽しく没頭してついに完成させることができた。

インプットとアウトプットのバランスをとると良いのかもしれないという発見があった。


あえて何もしないこの時間を「余白」と名付けて大切にしていこうと思う。

終わらない夏と秋の境  amnt

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