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【物語】餉々時の葬送

 シミひとつない完璧なまでの真白なテーブルクロス。 
 ミリ単位のズレも見当たらない、芸術品さながらのカトラリー。手を触れると伝わってくる、鈍い温度。
 無邪気なまでに頬張り続ける妖たちの咀嚼音。なりふり構わず己の腹を満たそうとする、見え透いた傲慢さ。
 そぞろ模様に満たされていく、私の思考回路。一度シャットアウトすれば誰も構おうとしない。

 しかし、それらはもう、皆無。全てはとうに過去のこと。
 今度は。今度こそは。私の番に回ってくるー。

◆ ◆ ◆

 「...さま...。ノン...さま...ハノ...。」
 聴こえている。はっきりと、明瞭な声が鼓膜を揺さぶってくる。でも、蓋をしたい。見て見ぬふりして、このまま微睡みの中でいつまでも暗闇と二人ぼっちが良いのに。せめて、あと3時間だけでも...。
「ハノン様!!起きてください!!!」
 バサッ。祈りも虚しく、全身をすっぽりと覆い隠してくれたブランケットは地面に落とされてしまった。ペチャンコになったピンクのそれは、何故だか羊のように見えてしまう。...あぁ、考えないようにしていたのに。馬鹿。 もう一度、ベッドのシーツにしがみつきながら、素早くブランケットを取ろうとした。けれど、瞬時の判断が遅すぎた。女中のミラの腕の中に素早く収まってしまった。
「観念してください、ハノン様。さっきまで二度寝していたでしょう。三度寝はないですからね。ちゃっちゃとお支度をしてください。今日は何の日か、忘れてらっしゃるわけではないでしょう?」
 言いながらミラは次から次へと窓辺のカーテンを開けていく。シャーッと流れる、鋭い音がだだっ広い寝室に虚しく響いている。レース布でできたカーテンの隙間から、燦燦と日差しが照り付ける。あまりの眩しさに思わず顔をしかめる。

 分かっている。今日がどんな日なのかくらい。でも、ミラがそうやって、わざとらしく訊いた訳くらい、ちゃんと気づいている。
 陽光が照り輝き、今日日が訪れることがなかったとしたら。私は、どんなことでもやってみせるのにー。

◆ ◆ ◆

 私の暮らす夕幽館は、宵暁の森の中にひっそりと聳え立つ孤城だ。半年前にこの世を去った両親の唯一の残してくれた遺産。だだっ広い城内に一人取り残されると、いてもたってもいられなくなる程の恐怖心が襲いかかってくる。一旦胸中に解放された黒い色した憂慮は、たちまち獣のようなスピードで全てを蹂躙する。
 この孤城だけじゃない。若くして両親を亡くす不幸に遭った私に対する数々の同情の視線も。手のひらを返したように、態度を変える使用人たちも。何もかもが私を惨めにすることを止めようとしない。

「私はもう、感激ですよ。ついにハノン様が『餉々時の葬送』で一人前の食み者になれる日がもう、夢のようで...」
「ところで、今回の御品書きは何かしら?」
「あぁ!私としたことが!!肝心な御品書きのご用意がまだでしたわ。申し訳もございません。少々お待ちくださいね」
 シーツを畳む手をピタと止めたミラは、大慌てで部屋を出ていった。パタパタと足音が遠のいていく。それと反比例するように、かつての「餉々時の葬送」で妖たちが食する瞬間の、あのおぞましい地獄絵図が脳裏によみがえってくる。

◆ ◆ ◆

 「妖」と聞くと、どんな風貌を思い浮かべるだろうか。実際のところ、それは誰にも分からない。妖の身で生まれた私にも、父にも母にもそれは明かされていない。私たちは、いつも目元だけがしっかりと覆われる仮面をつけて生活をしているから。本心の表情を見たことがない。

 この国には、太古の昔から2種の生き物で溢れている。それは、「お使い様」と「妖」。お使い様は神の使いとして人間の住む世界に下り、彼らの食べ残した飯(餉々)を再度調理して天空の社に住む神に献上する。神はたった一人で全ての調理された餉々を食べなければいけないけど、物理的にも現実的にも何億・何兆もの食膳がテーブルへと運び込まれてくるのだから、無茶も程がある。神のお眼鏡にかない、食べられる餉々には「秀」の称号が与えられ、逆に口もつけずに下げられた餉々は「菲」の烙印が付されてしまう。そして、神の食べきれなかった餉々を完食する役割が必要だ。それが、妖である私たちに託された任務。毎月25日の22時から行われるその儀は、「餉々時の葬送」と呼ばれている。
 神は餉々を食するとき、人間たちの汚くてドロドロした煩悩や冀求をも味わい尽くす。餉々に混ざり込んだそれらは、何にも代えがたい程の極上の口当たりがするのだそう。これが、餉々を神に献上する最大の目的。

 反対に私たち妖は、神に失格の烙印を押された餉々を食する。その際、食卓に運び込まれてくるのは、肉の餉々だ。牛、豚、鶏、鴨、羊、馬、兎、熊、鶉、駝鳥...。これらの餉々が再度調理されて食膳へと並べられる訳だが、私は一度も肉に口を付けたことがない。いや、この表現では正確に伝わらない。ある時を境に一切食べられなくなってしまったのだ。アペタイザーとして調理される分の微量の羶肉すらも匂いを嗅ぐだけで嫌悪し、身体が受け付けなくなってしまう。
 では、魚は食べられるのか?と問われると、返答に困ってしまう。だって、この国には数多の妖がいて、平らげる餉々は各種族によって予め決められているのだ。私の家の種族は、羶肉の餉々を食べる。魚の餉々は別種族の妖が食するから、自ずと答えは「ノー」だ。
 だが、肉にしろ魚にしろ、私が受け付けられる餉々はそれらではなくもっと別物である。蔬菜、果物、汁物、吟醸の餉々のみ。

 私が羶肉の餉々が食べることのできない理由は、単純明快である。「生きとし生けていた動物の鮮血が流された」から。

◆ ◆ ◆

 まるで屠り場に引かれていく子羊のようだ、と感じた。一歩を踏み出す足の裏が震えている。陰々滅々とした胸の奥深い場所。
 シミひとつない完璧なまでの真白なテーブルクロス。
 ミリ単位のズレも見当たらない、芸術品さながらのカトラリー。手を触れると伝わってくる、鈍い温度。 
 あれ程、拒んでいた22時が訪れてしまった。餉々時の葬送が始まってしまう。

 「ハノン様、御品書きをお持ちいたしました!長らくお待たせしてしまい、申し訳ございません」
 懐柔の笑みを湛えたミラの白手袋の上には御品書きの巻物がちょこんと鎮座している。巻物はとても厚みがあるから、今回の餉々も物凄い量になりそうだ。
「ありがとう...」
 恐る恐る右手で掴んだ御品書きからはずっしりとした重みが伝わってきた。この感触だけで、涙が出てきそうだ。留めてある麻紐をするりと解くと、信じられない程の長い長い巻物がシャーっと音を立ててダイニングの床に広がった。まさか、ここまでとは。
「以前、伝えていなかったかしら。餉々の量に留意して、って。お父様とお母様と共に食していた程の量は食べ切れないわ。どう頑張ってもこんな量、完食できるかは保障できない」
「ええー。そんなぁ。そう言われてもですね...。ちょっと頑張っていただかないと、厨房の御膳炊も苦労しているんですよ。貯蔵庫にも蔵にも餉々が溢れんばかり詰め込まれていて、これ以上は収容できないかもしれない、って。どうしても、食べ切ることができないとおっしゃるのなら、処分しましょうか。完食できなかった分のみ」
 え...。処分...?すぐには、ミラの発した単語の意味を理解しきれなかった。脳内言語処理が追い付かない。
「待って!!それじゃあ、餉々になった動物たちはどうなるの?!」
「ど、どうなるって...。それは、『無駄死に』という言葉選びが一番しっくりくるでしょうに。身勝手、横柄極まりない人間の味覚も、神の嗜好にも合わず味わわれなかった惨めな存在にすぎません」
 無駄死に...。狼狽しながら紡がれたミラの言葉は刃と化し、私にとって精神的に一番脆弱な所を突いてきた。「あの」トラウマが牙をむいてこちらに襲いかかるのは、時間の問題だった。
「そんな悲惨なことをよく口にできるわね。私が一体、どんな思いで食卓に着こうとしているか...何も知らないくせに!!」
「あ...も、申し訳ございません」
「下がってちょうだい。予め告示しておいたように、食事の時は御膳炊以外、誰も食堂に入ることは許さないから。その心づもりで」
「承知致しました。
 足早に扉へと駆け寄るミラの姿が視界の端に映り、チクリと胸が痛む。何も事情を知らない彼女に当たり散らすなんて、筋違いだ。全ての元凶は、お父様とお母様なのに。

◆ ◆ ◆

 あの事件は、私が13歳のときの餉々時の葬送で起きた。あの日、あの時間帯、あの瞬間が来るまでは差し出された肉の餉々を食べることができた、幼かった私。無垢な気持ちで純粋な心と笑みで全ての味覚という味覚を堪能していた私は無知だった。普段通り、おいしい餉々を食べれるのだと無邪気にはしゃいでいた。

「今日の餉々は何だろうね?」
「ふふ、今夜は子羊が出るらしいわよ。しかも、大勢のお客様もいらっしゃるから、いつもとはちょっと変わった食事になるとのことよ」
「え?!『ちょっと変わった』夕食の時間?何だろう!楽しみだなぁ。私、子羊、食べたことないから、ちょっとドキドキする」
「そういえば、ハノンはまだ羊は食べたことなかったわね。すっごくおいしいわよ。噛み応えがあるんだけど、口に含んだときにふわぁーっと溶けるような味わいも体験できるの」
「すごーい。早く食事の時間が来ればいいのに」

 そんな会話を書斎で母と繰り広げている間、ずっと期待感と恍惚感でハイになっていた。その日のうちに現実を突きつけられ、夜な夜な枕を濡らすことになるとも知らずに。

◆ ◆ ◆

 餉々時の葬送が始まるまで長いこと中庭で読書をしていた私は、眠くなって午睡をしてしまった。揺りかごのようなログチェア背中を預けていると、本当に赤子に戻ったような安心感を感じられた。開きかけのページが風にはためく音が耳に心地よかった。キッチンの方からは、スコーンやタルトの焼ける匂いが漂ってくる。滅多に食卓に並ばない焼き菓子。
「ふぁーあ。あ、お菓子の匂いがする。たぶん今夜はフルーツタルトとチョコチップのスコーンが出るぞ」
 寝ぼけ眼を擦りながら、思わず笑みを零す。立ち上がり背筋をすっと伸ばした時、チリン、チリンと鈴の音が聞こえた気がした。
「ん...?」
 辺りをキョロキョロ見回しても何もいない。聞き間違いかな...?

 チリ―ン、チリーン。

 あ、まただ。何だろう?お客様来館用の飾りベルの音だろうか。でも、お客様と言えど、同じ妖の種族だ。特にそんなにかしこまる必要もないし。
 耳をそばだててみると、中庭をぐるりと囲む草の茂みから鈴の音が聞こえてくることが分かった。どうやら音は、右の角の茂みから出ているようだ。歩み寄り、そーっとそーっと茂みをかき分けると、生き物がいた。白いモコモコの毛に覆われたそれは、鈴の付いた首輪をしていて「メェ」と小さく鳴いていた。
「わぁ!かわいい。」
 掌を伸ばし、驚かせないように優しく撫でるとピンクの舌で腕をペロペロ舐めてくれた。暖かかった。呼吸に合わせて上下に動く胴体も、雪のように白い体毛も、腕を舐められた舌も。
「あなたは、だあれ?」
 生まれてこの方、妖以外の生き物を見たことのなかった私は、撫でている白いのが子羊だは全く理解していなかった。優しく撫でているこの瞬間の数十分後にこの子が屠られることも。何も知らなかった。
 潤んだ黒いビーズ玉のような瞳を見つめていると、くすっと笑みが零れてきた。何故だかは分からないけど、一緒に遊びたいな。ずっとここにいてほしい。
「このお家に来る?」
 今度はそっと抱きしめようと両腕を広げたとき、ザッ、ザッ という足音が聞こえてきた。
「おやおや、こんなところに迷い込んでいたのか。ハノン様、離れてください。こやつ、噛みついたりしませんでしたかね?」
 使用人のイヴラだ。息を切らせているのを見たところ、どうやら、この白い生き物を探していたようだ。
「ううん。全然噛んだりなんかしないよ。イヴラ、この子、だあれ?私たちの種族以外の妖?迷い込んじゃったのかな?」
「あ...。い、いや...こいつは妖ではなくてですね。その、今晩の......いや、なんでもありません」
 かぶりを振ったイヴラは、あっと声を上げる隙もなく子羊の胴体を担ぎ上げて、屋敷へと戻ってしまった。

◆ ◆ ◆

 ダイニングルームには、所狭しと妖で溢れ返っている。いつもそうだ。お父様は、毎月の餉々時の葬送に大勢の客人をもてなしてはご満悦になる。招いた客人たちが食する餉々も、全て羶肉と決まっている。だって、私たちはそういう種族なのだから。
 囁き声と、談笑の粒で溢れ返ったダイニングルームを制する金の音が鳴らされた。間もなく餉々が運び込まれる という合図だ。上座に座っていたお父様が威厳たっぷりに立ち上がり、恒例の演説を始めた。
「餉々時の葬送にお集まりいただきました皆さま、本日も共にこうして食卓を囲む幸いに預かることができ、誠に光栄でございます」
 朗々とした声が一体に響き渡る。それまでの喧騒が嘘のように静まり返る。まるで大荒れの大海が凪になったようだ。
 「さて、皆さま、今回の餉々時の葬送はですね。少しいつもと趣向を変えてみようとある『代物』をご用意いたしました。というのも、我々は普段、神が平らげきれなかった餉々を食している訳ですよね。いわば二番煎じ。我が家自慢のシェフが腕をふるって、極上の味覚へと回ってきた餉々を変身させてくれるのですが、やはり面白味がない。もっと真新しい味覚...そう、『手を加えられていない』肉の餉々を食したい。そして、皆さまに満足いただける餉々時の葬送を開きたい。私はそのように考えておりました。」
 隣に座っている、私より幾分か年下の妖の、ゴクリと唾を飲み込む音が耳に届いた。
「そこで、今回はこちらをご用意いたしました。さあ!!あやつをこちらへ!!!」
 お父様の言葉を合図に、2人の使用人が中へと歩み進んだ。1人は鎌をもち、もう1人は、あの白い、モコモコの生き物を肩に担いでいる。鈴付きの首輪はしていなかった。モコモコは酷く震えていて、とても哀れだった。
 つい数十分前まで一緒に遊んでいたモコモコが、今私の目の前でうなだれている。到底、信じられなかった。あの子をお父様はどうするというの...? 使用人2人がそれぞれ左右に並んだと同時に、お父様は堰を切ったように話し始めた。
「これが、今夜の餉々にございます。子羊という種になるため、料理名は『ラム』だと聞いていおります。普段は生きている状態の餉々を目にすることはない故、ほんに特別な機会でございますぞ。お使い様の手違いで、人間界より生きた動物を神に献上してしまったらしく、わが家へ送られてきました。焼くなり煮るなり、好きにしてよいと、神からは仰せつかっております。」
 ?!! あのモコモコが、子羊?!では、これから私たちは、あの子を食すというの?だけど、どうやって食べるというのかしら。いや、そもそも今まで味わってきた種々の肉の餉々とモコモコは、風貌がまるで違い過ぎるわ。…まさか。
「それでは、始めい!!」
 お父様は、大声で叫んだ後、使用人2人に向かって頷いた。瞬間、担いでいた1人は子羊を地に降ろしたと同時に四肢を押さえつけた。もう1人は手にしていた鎌を振り下ろし、瞬時に子羊の首を刎ねてしまった。
 ゴトリ、と鈍い音が響いたのも束の間、客人の妖たちの歓声によってかき消された。叫び声を上げる暇も、抵抗する時間も与えられることなく屠られた子羊。雪のような毛が鮮血にみるみる染まっていく。辺りに立ち込める、生臭い匂い。
「ヒッ...」
 目を見開き、おぞましさと恐怖にただただ震えおののくことしかできなかった。さっきまで生きていた子羊は見るも無残な屍と化して、横たわっている。何が起きているの? 理解が追い付かなかった。
「続いて、我が家自慢のシェフによる調理を披露させていただきたく存じます」
 いつの間にか準備をしていたシェフは調理台に子羊の遺体を乗せ、慣れた手つきで皮を剥ぎ、調理を淡々と進めていく。

◆ ◆ ◆

 そこから先のことは、朧気な記憶しか残っていない。ただ、子羊が屠られる瞬間と大勢の客人たちの貪り食う表情が強烈な衝撃が心の中に置いてけぼりにされた。
「美味しい。初めて食べたラムだけど、こんなに神秘的な味がするなんて」「いやあ、旦那も粋なことをするもんだな。まさか生きた子羊を目の前で屠るなんて」
「普段より何倍も旨く感じるよ。こんなに食感が柔らかいなんて!」
 感情が揺さぶられることなく、淡々と客人たちはカトラリーをカチャカチャと動かしていく。
 目の前に差し出されたのは、ロースト状のラムが花のように盛り付けられた一品。ニンニクとネギを混ぜ込んだ特性ソースが掛けられ、香しい匂いを生み出していた。
 けれど、私は食べることができなかった。自らの器官で肉の筋を噛み千切るなんて、想像しただけで吐きそうだから。

◆ ◆ ◆

 たぶん、言い訳を並べ立てて食堂を後にしたのだろう。ふらつく足で中庭に向かった私は、何かに躓いて転んでしまった。擦りむいた膝からじんわりと血が滲んだけ。

 チリン。

 あの、子羊が付けていた鈴付きの首輪だ。かがんで、思い切り握り締めた。爪が手の肉に食い込んで痛かった。
「あ...あぁ.........ああぁ.........」
 みるみるうちに目の淵に涙が溜まっていく。私にも血は流れている。子羊にも血管が通っていたはずなのに。でも、もう子羊は、この世にいない。二度とあの円らな瞳も、愛しい鳴き声も、温かな体毛も絶対に戻ってくることはない。 
 今まで食していた自分の傲慢さが悔しかった。
今晩の餉々は何だろうー?
早く食べたいー。
もっと、もっと味わい尽くしたいー。

 無邪気な笑みを浮かべて食していた己の無知を激しく憎んだ。そして、こう誓った、二度と、肉の餉々は食べない と。

◆ ◆ ◆

 シミひとつない完璧なまでの真白なテーブルクロス。
 ミリ単位のズレも見当たらない、芸術品さながらのカトラリー。手を触れると伝わってくる、鈍い温度。
 そして、所狭しと盛り付けられた肉の餉々の食膳。

 13歳の誕生日を機に、私は一切の肉の餉々を拒むようになった。でも、主要な栄養素である肉を口に含まぬ日が続けば続く程、体力は消耗され、体重も減少の一途を辿っている。
 「満たされない」
 「ミタサレナイ」
 「満たされない」
 「ミタサレナイ」
 次第に心が叫ぶ声はいつも同じ内容だった。空腹を紛らわせるために、今まで以上に多くの蔬菜、果物、汁物、吟醸の餉々を口にするように努めた。それも、もう限界だった。

 生きるためには仕方のないことー。
 胃袋を刺激する芳醇な香りー。
 本能のままに馳走に預かるだけー。
 腹を満たす夢のような味覚ー。

 御品書きに書かれた通りの相違ない食膳が目の前に運ばれてきたとき、思いもかけず、全てを食らい尽くしてやりたいという下賤な欲望がムクムクと湧き上がってきた。脇目も振らず、ただただ欲望に身を委ねて。

 だが、フォークとナイフを手に取り先を肉に充てる瞬間に脳裏に浮かぶのは、屠られた子羊の像。
「無駄死に」。ミラの言葉が脳裏をかすめた。
 ...もし、この羶肉の餉々が私に食されなかったとすれば、それこそ屠られた命の行き場はどこにもない。
 生まれてきた意味は、人間の身勝手で屠られるだけ ということになる。
 それなら。
 そんな運命を辿らせるくらいならば。
 震える手に力を込め、刹那の息を吐き、こう呟く。

「いただきます」

 ゆっくりと切り分けたのは鴨の餉々。フォークで突き刺した一切れを時間をかけて口元へ運ぶ。
 そして、意を決して口腔内に含み、目を閉じ、咀嚼を繰り返した。

 一定の速度で脈打つ鼓動。
 流された血の紅。
 母から生まれ出た命。

 それらを実感しながら食していく。奪ってしまった命によって生かされている現実を見据えながら。
 今日も、私は、餉々を食しながら頂く命を葬送する。
 空に還った命は、同じ見目形では戻らぬことを噛み締めつつ。

ー8199字ー
ー終ー


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