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「正しさ」よりも「有益さ」だよね
昨日、ベンジャミン・リベット『マインドタイム』という本を読んだ。読み終えたらぜひ感想文をシェアしたい一冊なので、いずれ書いていることだろう。
ベンジャミン・リベットは、カリフォルニア大学の生理学者であり、(もう亡くなってしまっているが)自由意志の準備電位の研究で優実である。
準備電位とは、我々人間が自分の意志で何か行動を起こそうとする数百ミリ秒前には無意識の脳電位活動が始まっており私たちの行動はあくまでその脳の活動の結果に過ぎない、というものである。
つまり、自由意志というものはなく、私たちは脳の活動によって動かされているだけだ、というのが彼の主張である。
(その一方で、「やろう!」と思った瞬間にそれをやめることができる、「拒否の自由」が自由意志の存在を証明している、とも述べている。つまり、脳の活動によって取ろうとした行動を直前で辞める時には、我々の自由意思が働いていなければ、可能にならない。よって、自由意志は行動を拒否する役割を持っているのであろう、ということである。)
彼の研究は、意識や自由意志の研究に大きな影響を及ぼし、現在でも自由意志については議論が行われている。
例えば、アメリカの哲学者で神経科学者のサム・ハリスは、リベットの理論を基に、自由意志は存在しないと主張している。
その一方で、「解明される意識」や「解明される宗教」で有名なダニエル・デネットは、自由意志と機械論が両立しうると考えているが、そのためには従来の自由意志の定義から少しばかり修正が必要だとしている。
他にも、スキナーやチザムなど、数多くの心理学者や哲学者が自由意志について持論を展開しているが、つまり、それだけ意見が分かれる、いまだにはっきりしていないテーマだということである。
自由意志に限らず、このようなあいまいなテーマや議論は心理学や哲学、宗教などの人文科学においては非常に多い。何千年もの間、論争が続き、何が正しいかを決定することが不可能に見えるテーマも数多く存在する。
しかし、そんな時、大切なのは、正しい方を選ぼうとするのではなく、自分にとって有益な、つまり役に立つ方を選ぶべきではないかということである。
もちろん、それを専門に研究している学者であれば、持論を真とするための研究に身をささげるべきであろう。
しかし、そうではない私たちにとっては、自由意志が存在するかどうかは分からんけど、あると考えるほうが自分にとっては都合が良いな、という感じでとらえることも重要なのではないかと考える。
自由意志に限らず、人の心理は解き明かすのが難しい。それは、決して分からないわけではなく、どれか一つが正しくて、それ以外が間違っているということを証明するのが難しいということだ。
例えば、「メンタルヘルスにはこういうことをすれば良いよ」というハウトゥーや情報はあふれている。
そして、それはどの方面から出てきたものかによって、全く違うことを言っているように聞こえることがある。
例えば、科学と宗教は、なかなか相容れない。宗教を信じて心の安定を図ろうとしている人を、科学の世界の人は鼻で笑うかもしれないし、「占いに科学的根拠なんてない」と非難するかもしれない。
私もそこそこな物理主義というか、科学主義なので、精神世界についてはなかなか受け入れることができない。
もし仮に、私が精神を病んでしまい、助けが必要になったとしても、神に祈ろうとは思わない。
だが、その一方で、それを信じて祈り続ける人もいる。私はイギリスでそのような人をたくさん見てきた。
私が在籍していた大学の近くには世界遺産にもなっている大聖堂があった。そこでは、定期的に聖沙が行われ、敬虔なクリスチャンたちがたくさん訪れる。
彼らにとってはそれが救いになり、生きる糧になり、生活を良くしてくれるものなのだろう。
現実的にみれば、問題は何一つ解決していないわけで、神が代わりに片付けてくれるわけでもない。
にもかかわらず、「神が救ってくれる」と信じているわけだ。大事なことはそれが正しいかどうかではなく、その行為が本人たちの役に立っているということではないだろうか。
科学的に証明されたものだけを使うべきだ、と考えるのは、どうも傲慢すぎる。過去にも書いたが、科学はそんなに万能ではないし、科学的に証明されたからと言って、イコール100%正しいとはならない。
であれば、自分にとって役に立つっ物を良いように解釈すればよいのではないだろうか。
大昔の、物の真理を追い求める哲学が普及していたころはそんなことはできなかったかもしれないが、幸い、現代社会では、思考や言論の自由は保障され、自分がどう考え、何を信じるかも自分で決められる。
確かに科学は再現性が高いが、それは完ぺきではない。特に、自由意志や意識などの精神現象との相性は抜群に悪いと言える。
そんな時、私たちには見ることも感じることもできない世界を出してきて、都合よく理解することも時には有効なのではないか。そんなことを考えてしまった。
ただ、もちろん私が科学者になったら、正しさを諦めることはしないだろう。それでも、すべてのことを知ろうとするのは、もしくはすべてを理解できると信じるのは、人間の驕りだと言えよう。
海野華月