自己肯定感を持ち得るか
さて、ここ数十年、「自己肯定感」とやらの重要性が叫ばれている。
実際にそれを高めたいと願う人も多ければ、それを高めることの重要性を訴える人もいて、見事にデマンドアンドサプライが成立ということでそれがビジネスになっていたりもするわけだ。
私が、まだ臨床の道に進もうと考えていたころ、何度かそんな人たちのセッションを受けてみたり、そういう人たちと話す機会があった。
(そういう人たちというのは、自己肯定感を高めたい人と自己肯定感の重要性を訴える人の両方である)
そこで思ったのは、別に自己肯定感を高めたい人が自己肯定感が低そうだなとも感じなかったし、自己肯定感の重要性を訴える人が必ずしも自己肯定感が高そうだ、とも感じない、ということである。
(ちなみに、楽観的な人と自己肯定感が高い人はここでは区別している。なぜなら、楽観的な人はただ単に思考が浅いだけの可能性もあるからである。自分の身に起こり得るリスクや危険に対して無防備な状態であることをけっして肯定感とは呼ばない。)
「自己肯定感が低いんです」という人も意外としっかり自分の主張をぶつけてくるし、逆に自己肯定感の重要性を訴える人の中には、どうやら頑張って耐えているだけで骨組みのもろさが垣間見える人が多かったからだ。
まぁ、そういう人たちはそれを仕事にしてしまっている以上、自己肯定感が低そうな一面を見せてはいけないという強迫観念めいたものによって行動が支配されているのかもしれない。
そんな私はというと、たぶん自己肯定感が高くも低くもないんじゃないかと思う。なぜなら、自分のことが好きでも嫌いでもないし、もっと言うと、自分が何をしようがそんなに興味がない。
(この感覚は非常に伝わりづらいのだが、以前私が優しさの話をした記事の中で、「友人や恋人が何をしていようが全く興味がない」と述べたことがあるが、そんな感覚である。)
つまり、自分のことを肯定する気にも否定する気にもならない、というわけである。
しかし、こういうと、「それだけ自分の考えを貫けるのは自己肯定感が高いからだ」と言われることも少なくない。
大事なのはそこである。私は、ほとんどの日本人が自己肯定感を持ち得ないんじゃないかと考えている。
なぜなら、以前も別の記事で書いたことがあるが、ほとんどの日本人には「自己」がないからである。
どういうことかというと、日本は集団主義国家と言われており、自分の利益よりも集団の利益と調和が優先され、それを優先する行動が美徳となる社会である。
そんな中で日本人の多くは、自分を独立した一人の人間ではなく、社会という大きな一つの共同体の一部をなすパーツとして、無意識的に自分をとらえ、そのような行動をとるように教育されている。行動が教育されると、多くの場合、思考も同じように教育されることになる。
例えば、学校では、クラスの輪を乱してはいけない。自分勝手に質問したり、発言してはいけない。クラスという共同体の中で、一つのパーツが勝手な動きをすれば、全体としてのバランスが崩れるため、そのような行動は許されていない。
会社でも同じであろう。今でも年功序列制度が残った会社は多い。そんな中でh、各社員がそれぞれのパーツを担いながら、運動会の組体操の最後のピラミッドのように、きれいな階級制度が設けられている。
そして、それを逸脱するようなものはもれなく排除されることになる。
というように、日本では、独立した「自己」が育ちにくいのではないか。そして、その結果、自己を肯定するとか否定するとかの前に、どのような自己を持っているのかすら分からなくなっているのではないか、と考えている。
その結果、人間関係は依存的になり、行動は他人ありきのものへと変化していく。その状態で自己肯定感を高めろなんて無理な話だ。ない物を肯定はできないのだから、そもそも論理的に破綻しているようにすら聞こえる。
一方で、英語圏では、多くの人間が大学生くらいですでにかなり事故が確立しているように見える。(私が大学にいたころの周りの大学生しか見ていないので、一概には言えないが、いろんな情報を見る限りあながち間違いではないと思っている。)
それは言語にも表れており、例えば、「手伝いましょうか?」とか「それ運びましょうか?」とか「写真撮りましょうか?」のように、こちらから何かを提案する際、日本の英語教育だと「Shall I ~? 」を一般的に習うと思う。
「Shall I take a picture of you? (あなた方の写真を撮りましょうか?)」のような感じで使うのだが、正直、私がイギリスにいた時、この表現を聴いたことがない。
その代わり、皆私に何かを提案してくれる時、「Do you want me to ~? 」という聞かれ方が多かった。例えば、私が居候していた家から大学の寮に引っ越しするとき、ある友達が「Do you want me to help with your move?」と聞いてくれた。
(ちなみに、「want 人 to do(人にdoしてほしい)」という意味なので、直訳すると、「あなたは私に引っ越し手伝ってほしい?」と聞いているわけである。)
日本人的な感覚からすると、このような聞き方は少し上からに聞こえるかもしれない。
しかし、英語圏では、これを提案の時によく使う。もしくは、「何か手伝おうか?」くらいの英語であれば、「Do you need any help?(手助け必要?)」と尋ねる。
このような尋ね方が成立するのは、受け手側に自己があるからではないかと考える。相手を一人の自己を持った人間として捉えているからこそ、「あなたが手助けが必要かどうか分かってるでしょ?いるんやったら私やってもいいし、いらないんだったら手は貸さないよ」くらいの感覚だと思う。
しかし、このような聞き方をすると、多くの日本人は相手への迷惑や相手がどう思うかを先に考える場合が多い。
その結果、本当は助けが欲しいのに、「いや、大丈夫」と断るといった現象が良く発生する。これは、決して自分の意志で相手と会話をしているわけではなく、自分の中に相手を取り込んで、相手の気持ちや感情ベースで意思決定を行っていることになる。
まるで、パソコンとスマホを繋いでスマホの充電をしているかのように、片方の充電がたまればもう片方の充電が減る、というような世界観の中で生きている人が多いと思う。
何度も述べるが、そのような状態で自己肯定感を高めよ、と言っても、それは無理な話である。
なので、もし自己肯定感を高めたければ、自己を作るしかない。作ったうえでそれを肯定しておけばよい。また、別に自己肯定感なんて考えないこともできる。
我々人間は考えるからこそ不幸になるともいえる。将来のことなど考えなければ、現在に絶望することもない。今の生活に不満を抱くこともない。
死について考えることがなければ、死を恐れることもない。にもかかわらず、人間はとてつもない思考力をはぐくんでしまった。そして、その結果、自己肯定感なる謎の存在を考えるに至った。
つまり、それは人間の思考のせいであり、一度バカな振りをして、忘れてみるのも一つの手なんじゃないか、とすら思っている。
海野華月