生活をする、ということ
なにか特別な場所じゃなくても、あ、おもしろいとか、いいなあと気づく瞬間はたくさんある。
スーパーも、その宝庫だ。
カートを押していて商品が入ったカゴにぶつかって、見事に全部ひっくり返してしまったとき、そばにいた女性がすぐに駆け寄ってほとんどを拾ってくれて、お礼をいうと、「いいのいいの、ぶつかっちゃうよねえ、よくある〜」と言いながら何事もなかったように立ち去っていった。躊躇なく人を助ける、ということが体に染み込んだ人だと思った。そういうひとのさりげない善意に触れたとき、心がぽっとあたたかくなる。
野菜売り場をみていたら、隣のおばちゃんが「赤くて大きなトマトが欲しいんだけどねえ、まだ色が薄いねえ」と呟いていて、それに「ほんまですねえ」とノったら、それから野菜の保管方法などを伝授してもらえた。人参はすぐにヘタを切り落として保管すると持ちがいいのよ、とか、みかんが酸っぱかったらしばらく置いておくの、そしたら甘くなるわ、とか。このやりとりは別にしなくてもいいやりとりかもしれないけど、一期一会で即興的に繰り広げられる交流であり、それが生活をする、ということだと思った。
コンビニの店員が60代くらいの女性で、名札にトレーニング中、と書いてある。ひとつひとつの動作が丁寧で、受け渡しも気持ちが込められてると感じる。あなた機械ですか?という店員もいる中で、彼女の接客はまるで高級ホテルのようなホスピタリティだ。そういう人に出会えたとき、心がぽっとあたたかくなる。
狭い道をお互いに譲り合う相互通行もすきだ。当たり前のように前進してくる車もいれば、丁寧に会釈をする人もいる。だけど双方が同じきもちで譲り合った瞬間が、なんともやさしい気分になる。
どんな場所でも誰かを気にかけている、という姿勢は、周囲の空気をあたためる。それを目でみて感じて切りとる。それを心のストックにたくさん保管する。それがそのひとの栄養分になっていくとわたしは信じている。