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詩人 唖の王、盲目の王ー吉増剛造ー

吉増剛造について書くのは今回が初めてではない。

所属している関西の同人誌で何年も前、試論社から刊行された彼の詩集『何処にもない木』についておよそ評論にいたってない文章を書いている。

「彼の詩は会員制倶楽部のようだ。重いドア、微かな声、意識的に反復するリズム…。しかし微かな声だと侮ってはいけない。あでやかにメイクしマニキュアを施した指で重いドアを押し開くと、首が痛くなりそうなほど上を見上げた滾りを内在した吉増に会えるだろう。」と私は書いた。

以前の持論を否定しない。それはある意味市村弘正が書いていたように「吉増剛造を読むということは、ある「負荷」を引き受けることである。」と同義であろう。

たとえば作品に散りばめられている名前(デリダ、ヘルツォーク、オシリスなど)をたどったり、本の価格、装丁などを取り上げてみてもサロン的だと揶揄することは容易だと思う。語学の知識、哲学の専門用語、それらの下地がなければさらに彼の書く言葉の深部まで降りていくことが難しいと今でも思う。

正直に書く。

私は吉増剛造が好きではない。

しかし「苦手、わからない」は読者の感想だろう。私は詩を書いている。詩を書くものとして自作をさらに高めるため詩を読み込んでみたい。

私があえてたぶん最も苦手だと思われる彼を選んだには理由がある。関西の詩人仲間S氏が

「谷川俊太郎はシンパシー、吉増剛造はワンダーだ」

と見事なたとえをしていたのが今も記憶に残っているのだ。優れた書き手である彼が心酔したワンダー。相手が近づいてきてくれないからこちらから行くしかない。そして私も吉増のワンダーに触れてみたい。彼のシャーマン的なワンダーに酔えるか否かで近年の吉増作品の読み手の評価は分かれると思うからだ。しかし果たして、それだけなのだろうか?

吉増の詩作における歩みを論ずるうえで避けて通れない点は初期と後期の言葉の圧力の極端なシフトチェンジである。

後期は破壊力のある言葉から、できるだけ離れたところへ行こうとする強い意志を感じる。

ぼくは詩を書く

第一行目を書く

彫刻刀が、朝狂って、立ち上がる

それがぼくの正義だ!

          「朝狂って」

今夜、きみ

スポーツ・カーに乗って

流星を正面から

顔に刺青できるか?きみは!

          「燃える」

               (『黄金詩篇』(思潮社))

初期の代表作を読んでみても「!」の多用といい、言葉の輪郭が鮮明な点といい言葉が強い。流星のように流れが速い。

しかしこんな作品を書きながらも、彼は早い段階から自分の言葉とその言葉が放つ温度の落差に戸惑っているふしがうかがえる。

もはや言葉にたのむのはやめよう

真に荒野と呼べる単純なひろがりをみはたすことなど出来ようはずもない

人間という文明物に火を貸してくれといっても

とうてい無駄なことだ

              (『出発』(新芸術社))

さらに1972年に刊行された『王國』(河出書房新社)では、スポーツ・カーや渋谷に心酔していたように思われた彼がこう書くのだ。

ああ、淋しい王國だ。君は恋人を求めて都市をさまよう。緑の谷もなく、ここは木彫り仏のたたずむ淋しい國だ。

             (「古木、Heaven!」)

言葉にたのめない、現実社会は空疎だ。

では彼はどのように、なにを、書いていくというのか?

私は吉増が語った「言葉をかがる」ということと「わたし」のありかたにその後の企ての鍵があると思っている。

かがるを辞書で調べてみると

すでに凹凸で穴が開いているものを「繋ぐ、接ぐ、綴じる」

などとある。

石川九楊は吉増の詩で、もはやスタイルとして確立された感がある後期作品群で多様されている「ノ」のついて「漢文を日本語に作り変えるために、先を尖らせ、角度をもって、強固な漢字の壁に打ち込まれる鑿(のみ)の姿に他ならない」と書いている。私はこの「ノ」表現は打ち込むものとしての破壊力より、あて布のように感じられてならない。吉増自身も1981年の刊行された『静かな場所』の「瞽女さん」で語っている。

うまくいえませんけど、縫い物をしながら、耳を澄まして聞いているように、誰かと一緒に言葉を(英語ではなくてね)聞いている気分になりたかったようです。

吉増がどのように「あて布」を使って言葉をかがっているのか?

彼の「かがる」とは「超える」に近いものではないかと私は考える。

たとえば『オシリス、石の神』の「赤壁に入っていった」について中上健二との対談録『発言集成』(第三文明社)で語っているが「近頃の僕の作品には幻の映画の弁士になって話し始めたような声と映像的な面があるんですね。あるものを書いて映画っていうんじゃなくて、違うところからスクリーンに入っていくようなね。」

スクリーンから現代(現実)を「超える」。

また、時間を「超える」手段として彼が作中でよく乗り物に乗っていることもあげられる。前出の中上もその著者のなかで

「吉増さんがやっていること、つまり、いつも変速機でスピードを切り換えてやっていくことは、とても面白いと思うね」と語っているが、後期の彼は歩行がメインだ。速度を変えるためにはバスや船に乗るとたやすい。それを中上は変速機と言っているのではないか。

さまざまな乗り物に乗っているのも、そしてそのことがよく作品に書かれているのも変速機で時間を(自分の歩行や疾走ではないスピードで)超えるためだったと言えるのではないか。

次は光だ。吉増が写真を撮影するとき多重露光を多用するのは有名だが、プライベートでも交流のある荒木経惟に言わせると

「ゴーゾーさんの詩も、影に光を染み込ませる、光の中に影が入っていくそんな言葉なのね。それは写真でいうと二重像になるんです」。肉眼では見えない光を作り出す。

可視化できない光を、「超える」。

さらに荒木は音にまで話を広げる。「写真の二重露光もそういう手の移動とか気持ちの揺れみたいなものとしてあって、文字も音が聞こえなきゃいけないって銅版をコンコン打ったりする。あれは文字の音楽なの。テン、テン、マル、マル、テンとかさ」(『現代詩手帖』1999年10月号「ゴーゾーさんの品」)

この銅版を打つ音とは書き手の持つ内在律とは異なる。

内在律とは良くも悪くも書き手に根ざしたものだ。以前、ピアノの曲に合わせて自作詩を朗読する会を開催した経験がある。

料金もいただいたしピアノを担当したのが友人ではあれプロのピアニストだったので本番まで何度か合わせのレッスンを行った。

彼女の指導を受けながら、朗読のスピード、間のタイミング、テンポなどを、お客様により聞き取りやすいものにするために、印象付けたいフレーズが残りやすいように細かな調整を行っていった。

不思議なことに数度レッスンを重ねただけで私はどんどん苦しくなっていった。そのときは理由が分からなかったが今思うと調節したリズムと私の内に持つリズムがどんどんずれていったからだと思う。

自分の作品を耳ざわりよく加工したために自分の内なるリズムからどんどん遠ざかっていったのだ。

内在律を調節することがいかに大変な作業であるか、実感した体験だった。

しかし吉増は呼吸の中断から自分の内在律を調節することによって、さらに新たなうたが生まれると感じたのではないだろうか?自分のリズムを遠ざけるために銅版を打つ音に全神経を傾けようとしたのではないか。

自分の内の音を「超える」。

では「わたしのありかた」はどうだろう

2011年、林立騎のフォーラムでは(「わたし」はそれまでのわたしではいられず、別の、「わたし」があらわれる。「わたし」)は変わり「わたし」は増える。現実がずれる。呼吸の中断からうたがうまれる)と語っているという。

そう、彼は「わたし」だけを書いている。

常にブレルことなく。

共通認識のたやすい伝達ツールのような言語を封印し、城に立て籠もっている、王。

見えている目を(吉増に言わせれば大切なものは目には見えないと、とある童話のような返事が返ってきそうだが)自らの意思で頑なに閉じた王。

彼は王だ。神秘主義的なものを崇拝しているようでその実まったく信じていない(言葉をかがるということ、シャーマンでもないということその2点において現代詩文庫『続々・吉増剛造』で書かれていた松浦寿輝の解説に私は深く賛同する)自らの場所を決して離れない。

王は自分から人の傍らには行かないものだ。謁見に来た国の民を手招きして耳元でパクパクと口を動かす。

「私がわかりやすく話す必要はない。一言一句を感じとれ、おまえが」。

あまりに不遜で近づきたくもなかった覇王のような書き手。

しかし王はただ啞となり盲目となり(サロンや城どころではない。まさに王国だ)立て籠もっているだけではなかった。

ひたすら「わたし」を凝視しながら

時代(映像のようなスクリーンから)・時間(変速機に見立てた乗り物に乗って)・光(可視できない光を創り上げ)・リズム(内在律ではないもの)を

かがっていくこと、すなわち、超えていこうとする「企て」を虎視眈々と進めていた。

その企てを枯渇させない「飽くなき滾り」こそが

私にとって吉増剛造という詩人に贈る賛辞の言葉「ワンダー」である。

                                         (了)

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