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毒親から逃げられない話 小学校編⑧
次回の更新で小学校編終了です。多分。長かった!
初めましての方は初回からどうぞ↓
https://note.com/amiko_m/n/naad06cba63b8
前回・友人関係について↓
https://note.com/amiko_m/n/n50630bb4d7ed
⑴ 自傷行為
私が厭世観を持ったのは、小学校中学年か高学年くらいだと思う。
友人とはうまく行かず、母からは怒鳴られてばかり、父は空気。
母によって作られた檻の中で生きていくのは無理だと思った。
活字中毒だったから新聞を隅から隅まで読み、リストカットというものを知った。
けれども、確実な方法でないというのは子どもでも想像がついた。
私がしたいのは厭世観をアピールして助けてもらうことではなく、間違いなくこの世から消え去る方法だった。
アピールしたいわけではないからリスカは私には向いていないと考え、自傷なんて露見したらますます母に怒鳴られるだけである、自傷なんてすまいと心に決めていた。
しかし今思えば立派に自傷していた。
一つ目は太ももに爪をたてること。
母に怒られている時間は、とても苦痛で心臓に錆びたナイフを突き刺されているイメージを常に持っていた。
実際に心臓がつまったようにキュッとして、あまりの苦しさに怒鳴る母に助けを求めたことがある。
聞き流されたけれど。
私の方は母の言葉を聞き流す技術なんて持ち合わせていなかったから、言葉の刃を全部受け止めて満身創痍だった。
そんな時にやっていたのが、太ももに爪をたてることだった。
爪を立てると痛気持ちよく、怒鳴られタイムの間中ずっとそれをするようになった。
流石に写真は載せないが、今も両方の太ももに爪の跡が紫色になって残っている。
二つ目は毛を抜くこと。
机に向かっている間、ふと気づくと左手が頭にあって髪の毛をいじり、抜いている。
中学に上がり人目を気にするようになってからやめるよう努力して克服したが、頭頂部が禿げてしまい髪の毛が生えてこなくなった。
もう少し早めにやめていればよかった……
頭髪以外にもまつげや眉毛を抜く癖があり、今となってはまつげを抜いていたのが信じられない。
何やってたの私……
最近母に頭頂部を指摘され、小学生の頃の癖を告白したら驚かれた。
全く気づいていなかったそうだ。
三つ目は爪を噛むこと。
まあこれは小さい子はやることかもしれない。
私は中学入学までやめることができなかった。
自傷行為は無意識にしていたけれど、自殺までは至らなかったのはなぜか。
それはただ単に怖かったからだ。
文豪や古典ならば本は自由に読むことができたし、新聞も情報収拾源だった。
色々な方法があることがわかったが、小学生でも準備ができるのは包丁で刺すくらいしかなかった。
ある日、両親が出かけている間にキッチンで包丁を出してみた。
魚をさばく用の出刃包丁があるのは知っていたので、それを床に置きその前に正座をした。
イメージは『新選組!』の山南さんの切腹シーンである。
しばらく包丁とにらめっこをしたが、実行することはできなかった。
痛いだろうし苦しいだろうし血を見るのはいや。
こんなこともできない弱虫のグズだと自分を責めながら包丁をしまった。
今も厭世観が募り、実行しようか迷っている時に同じことを思う。
この世が苦しくて終わりにしたいのに、勇気を出して一歩踏み出すことができない弱い人間である、と。
⑵ 暴力
この項目は私がずっと自分を責め、背負い続けている十字架である。
小学生の私は、自分だけでなく他人に対しても害を及ぼしていた。
小学校ではすぐ手や足が出る子どもだったのだ。
男子に対して汚い言葉を使い、大した理由もないのに暴力を振るっていた。
いけないことだと知りながら、どうやったら辞められるのか、そもそもどうしてこんなことをしてしまうのかわからなかった。
二度ほど本格的に先生に怒られた。
一度目はなぜか親への連絡が行かなかったが、二度目は電話があり母にこれまでにないほど怒鳴られた。
当然のことをしたのだから、このお叱りは理不尽なことではない。
しかし、この時に先生にSOSを出すこともできたかもしれなかった。
親に電話することは先生から予告されていた。
夜にお家に電話します。事前に言っておけばご両親の心象もいいだろうから事前に言っておきなさい、と。
この時に母について先生に相談していれば、もしかしたら……
私は本来なら罰せられてもおかしくない人間だから、穏便に済ませてくれた相手に本当に感謝している。
どんなに悪いことをしたか自覚しているし、一生忘れずにいなければならないことだ。
私はそれを理由に自己弁護するわけではないが、問題を起こす子どもは、人には言いだせない問題を抱えてるのかもしれない。ただ責めるのではなく、話を聞くことも大事であるのだと広く知ってもらいたい。
⑶ Dからの電話
前項とはまた別の私はずるい人間だというお話。
三年生か四年生くらいの時にクラスにDという女の子がいた。
彼女は頭が良くてテストで100点を常にとり、それを毎回自慢そうにしていた。
そういうわけで、いつしか周囲から無視をされるようになっていった。
ぐいぐいくるタイプの彼女は私も苦手であったが、無視はせず、かといって自分から話しかけには行かない微妙な距離を保っていた。
以前母から言われたことがあったからだ。
「全員と仲良くしなくてはいけません」
低学年の頃、友人についての悪口を家で言ったことがある。
誰についてだったかもどんな内容だったかも忘れてしまったから、大したものではなかったはずだ。
しかし母は許さなかった。
そして上の言葉を言ったのだ。
「悪口を言ってはいけない」ではなく「全員と仲良くしなければいけない」である。
そうか、いくら私が嫌いでも仲良くしなきゃいけないし、いくら相手が私を嫌っても仲良くしなきゃけないのだな、と私は命令に従うしかなかった。
そんなわけでDについても、本当は嫌だったけれども笑顔で接していた。
ある晩Dから電話がかかってきた。
「あみ子、私って嫌われてる? 私のこと嫌い? 私のどこがダメなんだと思う?」
私は面食らってどう答えれば良いのかわからなかったし、母の見守る中でどう受け答えをすれば良いのか頭が真っ白になった。
お高くとまっていること、頭の良さをひけらかしているところがみんなは嫌がっているのは私はよく知っていたが、それを言うことはできなかった。
電話口で私は泣いた。
本当は苦手だけれど、仲良くしきゃいけない。でもそれを隠したまま仲良くするのはどうなのか。
何もわからずただ泣いた記憶がある。
母は「あみ子がいい子だから頼ってくれたんだね」と満足げにしていたが、私はそんなにいい子じゃなかった。
Dは結局転校していった。
その後何度か手紙のやり取りをしていたが、いつしか途絶えてしまった。
全員と仲良くすることなんて不可能だ。
人にはそれぞれ相性があり、合わない人は合わないで良いのだと思う。
子どもに対してそれを押し付けると、矛盾に苦しむことになるし、グループ内で孤立しても(前回参照)親にヘルプを求められなくなる。
悪いことしかない。
⑷ SOS
友人関係について親に言うことはできないのは上記の理由。
母について先生に訴えられなかったのは、(以前も書いたが)両親が教師をしているがために学校のシステムについてわかってしまっていたからだ。
両親は夕飯の席で勤め先の学校であった出来事を話す。
生徒の家庭がどうたらといった内容もあった。
話を聞いていると、スクールカウンセラーに家庭について相談をしたらどうなるか、理解できてしまった。
小学校の保健室のドアには「秘密は守ります!なんでも相談してね」なんていう張り紙がしてあったが、それも嘘だとわかっていた。
スクールカウンセラーは担任と管理職に、担任は両親に、管理職は児童相談所に連絡する。
親に連絡が行ったらどうなるか、火を見るよりも明らかだ。
ただ話を聞いてほしいだけでもおおごとになりそうで、相談しに行くことはできなかった。
チャイルドラインも考えた。新学期にチャイルドラインの番号が書かれたカードが配られるたびに悩んでいた。
しかしそれもできなかった。
家の電話は母が全て履歴をチェックしていたし、自由に外出ができないため公衆電話にも行かれなかったからだ。
そもそも、家にいるのは嫌だったが、児相に連れて行かれるのも嫌だった。
私にとっては同級生が家族であったから、引き離されるのは考えるだけでも地獄なのだ。
警察、チャイルドライン、役所…色々考えたが、まず本気で取り合ってもらえないだろうとも考えていた。
今でこそ毒親やモラハラという言葉があり、精神的金銭的な暴力も虐待と認められるが、当時はあまり浸透していなかったと思う。
母の怒鳴りは汚い言葉を使うわけではない。
その代わり人格を否定し、母がカラスは白いと言ったら白いと認めねばならない怒鳴りであった。
決定的な虐待ではないと感じていて、いっそのこと暴力でも振るってくれたらと願っていた。
あの頃はまだ母に望みをかけていて、言えば自分の気持ちをわかってくれるのではないかと期待していた。
けれども、悩み事は打ち明けられず、コロコロと変わる母の倫理に反抗はできなかった。
テストの結果や暴力事件以外でのお叱りは覚えていない。
なかったからではなく、記憶していると自分がおかしくなりそうで、忘れていくようにしていたからだ。
理不尽なこともたくさんあった。
黒と言っていたのに数日後には白となる。
私や父が何かしでかして怒鳴られた後、母が同じことをしても謝ることはなく開き直る。
そんなことは日常茶飯事でいちいち覚えていたら大変だ。
けれどもその理不尽さは確実に蓄積されていってしまい、いろいろな点での矛盾に苦しんでいた。
次回は当時の私が、自分をどう客観視していたかについて。