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日本は核武装をするべきだッ!(小並感な考察)
昨年、日本の日本原水爆被害者団体協議会がノーベル平和賞を受賞したニュースがあったのは記憶に新しいですね。
巷ではどう受け止められていたのでしょうか。
我が家は地上波が映らないので、ニュースでどれだけれの扱いになっていたかは、残念ながら知りません。
しかし個人的には、
「なんてこったい……(遠い目)」
という感想です。
私は、日本は核武装すべきだ、という意見を持ってますが、これに関しては専門家がたくさんいますし、何を述べても「小並感」ということになるのは承知しています。
しかしながら、結局最後は「思想」の問題に行き着くのは間違いない。
国民ひとりひとりが、国防についてどういう「思想」を持つのか。
自国が核を持つか否かは、専門家だけではなく、国民ひとりひとりが核武装について、どういう思想形成をするのかが、最後に問われる問題でしょう。
今回は、フランスの社会学者エマニュエル・トッドと、西部邁を手がかりにして、核武装を肯定する思想を巡って書きたいと思います。
※ ※ ※ ※ ※
言うまでもないですが、核兵器がない世界がいいに決まっていますよね。
人類のまともな知性ある人びとの大多数が当然だと思ってるでしょう。
しかし人類という種は、古代に鉄器という破壊力ある兵器を発明してから大殺戮を繰り返し、火薬、鉄砲、ダイナマイト、核兵器と人殺しの手段をエスカレートさせ続けて今日があるのも事実。
しかもそれらの殺戮兵器は、兵器以外の用途としては、人類の生活的利便性に直結している技術でもあります。
鉄器以来の技術とそうであったように、この地球上ですでに回収し切れないほどの核兵器があるのも考えれば、もはや核兵器ともうまく共存する他ないと考えた方が、実際的であり、建設的とさえ言えると思います。
しかも、日本はいちおう、「アメリカの核の傘」の下にいることになっているというお話でございます。
(とんだ出鱈目・嘘話だと思いますが、国際政治の世界ではブラフとしてまだ機能していると日本の政治家や官僚、マスコミとアカデミアの連中は信じている演技をし続けると決めているようです)。
だとすれば、アメリカの「核の傘」の下という核依存体制の中で「平和」活動している日本被団協は、端的に偽善だと言う他ない。
おまけに、日本人が冷静に自国の核武装について考えるのを妨げ、いつまでも日本をアメリカの属国に繋ぎ止めておく、迷惑千万なお荷物だと思わずにおられません。
エマニュエル・トッドは、2018年に雑誌『文藝春秋』に、「日本は核を持つべきだ 世界的歴史人口学者の緊急提言」という論文を寄稿しています。
トッドは言うまでもないですが、ヨーロッパを代表する知識人。ウクライナ戦争についても積極的発言を続けています。
トッドの国際政治観は、ミアシャイマー(シカゴ大学)と同じく「戦略的現実主義(積極的現実主義)」と言われる立場と考えられます。
要するに、現実世界においては国民国家として形成された独立した国家しか存在せず、本質的に、「友人国家」や「永遠の同盟国」など存在しないという考え方です。
トマス・ホッブスのいう「自然状態」こそが国際社会のデフォルトというわけですね。
このことを念頭に置いてトッドが日本に言うことを端的にまとめますと、
「アメリカは内政的混乱と外交的独善によって、もはや信用できる国ではなくなっている。なので、日本はアメリカの提供する「核の傘」などという偶然性に身を委ねるべきではない。日本は独自で核武装しないと安全は決して保証されない。」
ということになります。
アメリカはウクライナ紛争でも、核恫喝をするロシアに対して徐々に弱腰となっているように、核を持つ国と持たない国に対して、露骨に態度が違いますね。
米国は、核兵器を持った相手(北朝鮮)とは交渉し、核兵器を諦めた相手(イラン)には攻撃的に出ている。ここから得られる教訓は何か。米国は、核保有国には和平的な態度を取るが、非核保有国には威圧的な態度に出るというわけで、「米国と和平的交渉をしたいならば、核兵器を持った方がいい」というメッセージを全世界に向かって発しているも同然です。米国は、核拡散を奨励する外交を展開しているわけです。
アメリカは日本にだけは核を持たせない態度を一貫させています(核保有の議論を進めようとした自民党の政治家・中川昭一はCIAに消されたという噂は絶えないですね)。その裏にある意図は明らかではないでしょうか。
日本にだけは、アメリカと対等に交渉できる立場に絶対にさせない、ということです。
果たしてこれは、核保有の非友好国に囲まれている同盟国に対する道徳的な態度と言えるでしょうか。
伊藤貫さんが繰り返し「アメリカは不道徳だ」と指摘するのも頷けます。
トッドはさらにこう指摘します。
例えば、中国や北朝鮮に米国本土を核攻撃できる能力があるかぎりは、米国が、自国の核を使って日本を護ることは絶対にあり得ない。米国本土を狙う能力を相手が持っている場合には、残念ながらそのようにしかならないのです。フランスも、極大のリスクを伴う核を、例えばドイツのために使うことはあり得ません。要するに、「米国の核の傘」はフィクションにすぎず、実は存在しないのです。
私はトッドのようなフランスのインテリは、アメリカ人の頭の中(思考のありよう)をキレイに見通していると思います。
フランスは腐っても西洋文明の中心。
西洋人の汚いところもはっきりと分かるし、何よりアメリカごときヨーロッパのモノマネから始まった歴史のない国のホンネなどは手に取るように掴めていると思います(いまだに19世紀フランス人のトクヴィルが書いた『アメリカの民主制』が現代もアクチュアルな古典であることを思い出すべきでしょう)。
取り上げているトッドの論文が書かれたのは前回のトランプ大統領誕生の時。
それを受けて、トッドはアメリの「狂乱状態」は恒常的に続くと指摘しています。かの国の構造的問題とそれは結びついているからだ、と。
そして2025年の再度のトランプ登場です。やはり状況は何も変わっていないと言うほかない。
アメリカの不安定が続くとすれば、国内の対立を、恣意的で冒険的な外交によって緩和しようとする危険性を持ち続けると考えるのが合理的です。トランプの唐突とも言える関税引き上げ問題にもその一端を見ることはできますね。
社会に起因する不安定さによって、アメリカこそもはや世界にとって最大のリスク要因であると考えるべき時代になっている、とトッドは指摘します。
(ロシアと中国こそが最大のリスク要因だと信じ込まされているのが、米国メディアの海外情報を信じ込まされている日本人の悲劇かもしれません。海外(のインテリ)から見れば、それらの国々とアメリカは似たり寄ったりというのが客観的認識でしょう)
日本国内では何かと「安心安全」がスローガンですが、えげつないリスク要因に自国の運命を握られている事実に対しては不感症となっているという滑稽さを直視すべきではないでしょうか。
続けてトッドは日本の核武装をこう評しています。
日本の核は、東アジア世界に、均衡と安定と平和をもたらすのではないか、と。ヒロシマとナガサキの悲劇は、世界で米国だけが唯一の核保有国であった時に起こりました。核の不均衡は、それ自体、国際関係の不安定化を招くのです。このままいけば、東アジアにおいて、既存の核保有国である中国に加えて、北朝鮮までが核保有国になってしまう。これはあまりにおかしい。こう考えると、もはや日本が核保有を検討しないということはあり得ない、と私は思うのです。
戦略的現実主義の立場が重視するのは、バランス・オブ・パワーです。
「力の均衡」こそが平和を実現するという考え方です。
ある政治学者が、中国の軍事的肥大化は日本の軍事的縮小が招いたのだと指摘しましたが、まさにその通り。
憲法改正さえも先送りにし続け、手遅れに手遅れを重ねた挙句、もはや日本が現在の軍事不均衡を打破する道は、核武装しか残されていないという有様です。
話し合いで平和を実現などというのは、核武装した後にするべきもの、としか言えない状況です。自国防衛に対する「強い意思」が問われています。
そのために、日本人が持つべき、核に対する考え方をトッドは分かりやすく述べてくれています(親切な人だ)。
核の保有は、攻撃的なナショナリズムの表明でも、パワーゲームのなかでの力の誇示でもありません。むしろパワーゲームの埒外に自らを置くことを可能にするのが核兵器です。核とは「戦争の終わり」です。戦争を不可能にするものなのです。
核を保有するとは、自国をパワーゲームの外に置き、そのことによって「戦争の終わり」を意味するのです。
この端的な思想こそ、戦後の日本で一貫して無視されてきたものではないでしょうか。
機能するかしないか分からないアメリカの軍事基地と「核の傘」に頼り続ける限り、日本はアメリカの仕掛ける全世界的パワーゲームに常に巻き込まれるリスクがあります。
(集団的自衛権の議論はまさにこれ。最近では、ウクライナ紛争での、ロシアに対する制裁もアメリカの要求通りでした。日本は対露関係の悪化に毅然と対応できる軍事パワーもないのに何を考えているのか、とプーチンはあざ嗤っていることでしょう)
はっきりしてきましたね。
アメリカを軍事的に頼り続けることのリスクこそ、核武装との天秤に掛けられる事柄なのです。
天秤の一方に「平和」などというボンヤリした抽象概念が乗るはずがない。
日本人はむやみやたらな被爆者被害意識から早く解放されるべきですし、血を見るのも怖いという、平安貴族のような感情論から理想主義に逃避するのも、いい加減恥ずかしいと思う感性が必要なのです(平和教育の転換)。
なので、日本原水爆被害者団体協議会の皆さんには、ノーベル平和賞をいい思い出にして日本社会から静かにフェードアウトしていってもらいたいと思う今日この頃です。
ここまで書いても、こういう人が必ずいます。
「人間は核をもったら、それを使わずにいられないのだ!核が戦争を終わらせるなんてあり得ない!被爆国の日本がどこかの国を核攻撃する可能性を持つなんてあり得ない!」
多岐に渡る論点ありがとうございます、といったところですね笑
宿題として考えることは一旦置きまして、ひとまず反対派に投げかける案として、西部邁が面白いことを『核武装論』の中で述べていますので紹介しておきます(この本自体は余興で書いたような感じで、西部邁にしては凡庸な本ですが、ポイントだけは面白いと思います)。
我が国の(改正)憲法の第九条の第三項あたりに、「核」は「持っても作ってもかまわない」が、しかしそれが「使われる」のはあくまで「報復」の場合であって、「予防」という名の「自衛」にあっても、それを先制として使うことは許されぬ、と規定しておくべきです。
要するに、先制核攻撃をしないと憲法に明言しておくという案です。
したがって、日本が核攻撃をするのは、日本のどこかがすでに核攻撃されて、甚大な被害が生じた後ということになりますね(!)。
核は絶対的な報復手段としてのみ保有する。
これは興味深い考え方だと思います。
そんな核保有の仕方では、日本国への核攻撃自体を阻止することはできないではないか、と思われるかもしれません。
しかし、ここに核兵器の存在意義の中心があると思えます。
例えば論文でトッドはこう述べています。
抑止理論では、究極、核は純粋に個別的な自己防衛のためにある、ということになります。つまり、自国を保護する以外には用途がないのです。核は例外的な兵器で、これを使用する場合のリスクは極大です。ゆえに、核を自国防衛以外のために使うことはあり得ません。
核兵器は、その破壊力の凄まじさによって、使用して相手を痛めつけられるのは、核によって報復されないという状況にある時のみなのです。
現代のように核保有国が多い場合、その保有目的の中心は、自国に核攻撃させないこと、すなわち、「自国を保護する以外には用途がない」のです。
これは、北朝鮮が必死でICBMを開発しようとしていることからも伺えます。アメリカに届くロケットがなければ、アメリカからの核攻撃への抑止にならないからです。
したがって、西部邁が述べるように、報復目的に核使用を限定したとしても、それは抑止力理論の理解から遠くないはずです。
要するに、核は「行使する可能性」によって相手国の攻撃を封じて、「恐怖の均衡」によって自国をガードする手段なのです。
ここが常識となっていない日本では、西部邁が言うように、憲法で行使する場面を明記する案は、大変興味深いと言うべきでしょう。
日本は世界唯一の核被爆国です。
この重たい事実から何を言えるのかも考えねばなりませんね。
私は原爆で亡くなった人々が、核兵器のない世界になってほしいなどという高邁な理想を支持しているとは、到底思えません。
日本も原爆を保有していれば、原爆投下はなかったのではないかと思っている犠牲者も多いのではないでしょうか。
もし私が原爆犠牲者の一人であれば、あの世から、二度と日本国土に核兵器を撃ち込ませないために早く核武装すべきであると、ジリジリしながら日本を見ているに違いないと思います。
本日は映画『オッペンハイマー』を鑑賞してレビューを書いた余勢で、日本の核武装について考えてみました。