ぐらしあすの「精神障害者における役割を持つということについて」
1) 世間一般の人々にも当てはまることだが、「自分が何かの役に立っていること。何かに貢献していると感じること」は生きて行く上で自分自身のよりどころになり得る。
このことは、精神障害者にとって体得すればするほど、自らの成長を感じることが出来るのでないだろうか。とかく、「約束をするのが難しい」、「責任を回避しようとする」「誰かがやってくれるだろうと考える」そういった傾向がありがちな彼らは、反面小さな責任を積み重ねることが自らの成長につながる。とりわけ集団の中で何らかの役割を持ち(これは自分が任されていること)、たとえそれがどんな形であれ、特に集団の中での役割を担うことは重要である。
AAや断酒会でも、約束を守り集い、自分の体験を語る。その継続がハイアーパワーとなって自分たちの、ひいては自分の「自信」につながる。
クラブハウスでは、当事者も職員も同じ立場にとって、ハウスを運営をしているらしい。
例えば、経営を担当したり、ハウスに届いた郵便物を部署ごとに配布する担当、調理の担当、玄関で仲間が来たときに挨拶をする担当、ユニークなのは、1日ひとつ面白いことを言って皆を和ます担当等など。「これは自分が行うこと」という認識を持ち、
組織内での役割を担っていく。それがチームワークとなり、「自分は社会の一員だ」という自負を成長させていくのではないか。
一方、クリニックや精神科病棟のデイケアやデイナイトケアでは、職員がプログラムを決めて行われることが多い(と思う)。そんなことを継続していると、提供しようとする内容とメンバーが望んでいる内容とのミスマッチが生じる。
そうするとメンバーは興味を持たなかったり、自分には関係ないと感じるのは当然である。その中身より、何人集めていくらの診療報酬が得られるかという問題に比重が置かれやすい。運営上ある意味仕方のないことかもしれないけれど、あくまでも「精神科リハビリテーション」という位置づけもあるだろう。リハビリテーションなら、それこそメンバーが力を持てるように工夫することと、そのシステムがあることが必要であろう。
ここでいうリハビリテーションと役割を担うということはニュアンスが異なる。
支援者主導型か、支援者とメンバーの一体型か、なにをどうエンパワメントするのか。
ミーティングを徹底することが最重要。例えばみんなでその日の気分やトピックなどを順番に話していく。パスもあり。そこで生まれるのは「りきまない一体感」である。別に何時に来て何時に帰るというしばりもいらない。
その後また午前中に、昼食の食材をみんなで決めて、誰が買い物に行き、誰が調理をするのかということを、メンバーが司会をして進行する。
プログラムを何にするか、デイケア新聞には何を書くか等など。
そして午後、デイケアが終わるときにまたミーティングを行う。今日はどんな気分だったか、何が楽しかったかを順番に話して行く。そして最後に掃除の担当を決める。
誰が床を磨くか、誰がゴミをまとめるのか、誰が掃除機をあてるのか、誰がテーブルを拭くのかを、メンバーの司会で決めていく。
何かトラブルが起こったり、不満があったりすると議論にもなる。良いとか悪いとかの問題ではなく、自分が言いたいことを言い、それを聞いている他のメンバーがその意見に賛同したりしなかったり。
一番大事なのは、職員もメンバーも共に話し合うこと。それに尽きる。
本来は診療報酬にしばられない地活でそれが成り立てばそれに越したことはない。
しかし、一度「色」がついた地活を変化させていくのは並み大抵な事ではない。
職員が志を同じくして、職員もメンバーも真の意味で一体化出来るのは、その最大公約数的集団パワーの大きさと質である。
のんべんだらりと「ゆったりする場」にとどまれば最大公約数どうのこうのという問題ではなくなる。
ゆるりとしながらもメリハリの効いた集団であることこそが最重要だと考える。
ディプレッションまっさかり。ぐらしあすの「こころの声」を中心に、自分が体験したことや、時折感じる何のエビデンスもない、主観の記事も徒然に書いていきたいとおもいます。よろしくおねがいします。