ぐらしあすの「依存症について(主観)」
人間だれしもが何かに依存しながら生きている。
依存は悪いことではなくてごくごく普通のこと。
しかし、依存に「症」が付いたら、それは日常のことではなく、もはや病のレベルになっている可能性がある。
また、依存の対象が他者を巻き込むか、或は自分への害となるかも大きな違いがある。
一番わかりやすいところでいうと
①アルコール依存症
②ニコチン依存症
①は一日中だらだらと飲み、仕事や家族があるならば、そこまで害を及ぼし、かつ自身の肝臓への負担をかけてしまい、命への影響も懸念することになる。
②は自身の身体への影響と、受動喫煙として他者を巻き込む。肺気腫や肺がんを発症する可能性もある。同時に昨今のたべこの値段が高いことから経済的負担も生じる。
③ギャンブル依存症は、勝ったときの快楽を強く記憶に刻み、今度はもっと勝てるのではないかという欲望を駆り立てる。
④覚せい剤(マリファナを含む)依存症は、自身を恍惚へと導いてくれるものであり、それによる精神活性化による、アートへの過敏性を増したり、自信が等身大以上なものと錯覚を起こす。しかし、これも自身への害は大きいし、尚且つ入手するパイプを持ち、経済的裕福でないと依存し続けられない。これも自身の破滅を招く。
⑤セックス依存症は、おそらく覚せい剤を使用したうえでの通常の快楽を超えた快楽を得られるのであろう。しかし、これはかわるがわるパートナーがいて成立しうるものであり、昨今では、プロゴルファーのタイガーウッズが有名である。普通に生きているとパートナーがぞくぞくと現れるのは信じがたい。そこには経済的な要因も含まれているのであろう。
そのように考えていくと、自身の経済的なものが回る範囲で(時には借金をすることもあろうが)あるもの、ことに依存していることとなる。
すなわち、自身の手の範囲での依存である。
富もなくパートナーもいなければ、お金を惜しみなくだして風俗に通うしかない(風俗嬢を否定しているわけではない)。
依存により自身や他者の身体への悪影響や、経済的困窮を招いてしまえば、一たび、借金を返すために労働するか、もう自死するしかない。
ぐらしあすは他人ごとではない。
アルコールやたばこを、もう明日はやめようと思っても、自身をコントロールするのは至難の業である。
でも、自身の経験上言えることは、依存する心的、時間的なものから他の有効なものに変化させるのは、自らを忙しい状態に追い込むことではないかと思う(もちろん認知行動動療法も功を奏するかと思うが。)
忙しくすれば、依存対象に目が行く前に、現実の目の前に必死で、そういった欲望を意識しない瞬間があるのではないか。
その瞬間瞬間が依存を遠ざけるものではないかと考える。
ディプレッションまっさかり。ぐらしあすの「こころの声」を中心に、自分が体験したことや、時折感じる何のエビデンスもない、主観の記事も徒然に書いていきたいとおもいます。よろしくおねがいします。