来年のことを言えば親が笑う
私は、納得していない。
受け入れられないと言った方が正確かしら。
どうも、腹の底からそうだと思うことができない。
まずは目の前のことをやれ。
度々言われたその言葉の意味は、とうとう分かったと思う。
生活をしろということなんだ。
私たちは、日々の生活を回さねばならない。
(余談だけれど、そういうことに大学生になってから気付く人も世の中にいるということを知っていただきたいです。そういう、社会性とか、世の中の見えないルールとかを解するのに生まれてから何年かかるかは人によって大きく違うのです。誰にも責任はありません。非も落ち度もありません。)
だけど私は授業に行きたくない。
そういうことならあの大学に行ったのに。先に言ってよ。
そう思った。
学校の成績が優秀だったころに行きたかった大学である。
僕はもう成績が良くない。
勉強はしていない。
けれど、勉強を捨てられてもいない。
勉強ができることが自信になっていた。
勉強が楽しかった。
知ること、考えること、分かること、覚えること、思い出すこと、
勉強はつくづく楽しい。
勉強をやめたわけではない。
ああ。
今の大学の授業に期待していないなんて言えない。
入学後のガイダンスで聞いた学部長の作品がつまらなかったからって。
10分で終わる内容に100分かけてたからって。
一コマまるまる、家でもできるオンラインのテストに費やすからって。
入学1か月で何が分かるって、この主張を聞いた誰もが思う。
だけど今僕の出席率が軒並み低いのは、そういうことが理由なんだ。
あと時間帯。
こんなに日数も、そのうちの早起きの日数も、多いなんて思わなかった。
時間も内容も不満だから、足が遠のく。
親が入れてくれた大学に、こんな言い草あんまりかもしれないけど。
でも僕は、そもそも時間がほしかった。
ずっと、妄信的に勉強をしていて、バランスを崩して勉強をしなくなって、
本や映画のような、作品、芸術、文化、そういった名前で呼ばれるものに入れ込んで、
自分の気持ちや、人の視線や、送ることになる生活の想像や、
そういったもので頭の中は混沌として、
判断材料は少なく、
決断の責任はこの両肩にのしかかり、
皮肉にも私は目の前の問題を処理するために、今に繋がる一つ一つの決定を下したのだ。
ずっと時間がほしかった。
高校生のときには、学年が進むことを待ってほしかった。
小中学生のころには、日々にインターバル休憩がほしかった。
急かしたくせして責任を押し付けて、まるで悪徳商法じゃないか。
今から何を始めようとしたところで、またすぐやめると思われる。
僕は今、あの大学の授業に行くしかない。
僕は自由だ。手首を縛られていないし人質も取られていない。
けれど日々を穏当に進めるなら、やっぱり、授業に行くしかないんだろう。
他に道があったとしても、見付けられないんだから、見付けるまではないのと同じだ。
この自由な足で、授業の教室に入っていくんだ……。
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