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【知育】は幸せをつくるのか?


ふと育児本のコーナーに目を向けると、ズラリと仰々しい言葉のラインナップ。
「知育」「ハーバード式」「東大脳」「子どもの才能を伸ばす」「頭のいい子に育てる」「世界に通用する英語力」

これらを手に取る方々は、それら(以後は、代表して“知育”と表記します)が子の【幸せ】につながっているという考えを持っているのだと思います。
それは何か根拠を持って確信しているのかも知れませんし、もしくは、なんとな〜く「頭が良ければ高収入になり、それはイコール【幸せ】に違いない」という思いを持っているのかも知れません。


我が家の【幸せ】については、前投稿で書いた通り
『“ある程度”の相対的幸福と“たっぷり”の絶対的幸福。』
だと結論付けることになりました。

では、“たっぷり”の絶対的幸福を味わうために、必要なものはなんなのでしょう?


幸せな人は【幸せ】について考えない

そもそも、たっぷりの絶対的幸福に溢れている人は実は【幸せ】については深く考えないのかもしれません。
(例えるなら…卵アレルギーがある人はどんな料理に卵が使われているか、卵が食べられる人よりもうんと詳しく知っています。そんな風に“当たり前”には目を向けづらいものだと思うのです。)

生きる。それ自体が楽しく愉快であることがデフォルトであるから。

それはとてもとても素敵なことです。そうなることが一番の理想です。

そうなるために必要なことは、
✅主体性
✅自己肯定感
であると考えます。
(その基礎に必要なものが、✅愛着形成)

そのために我が家の育児方針は、『子のやりたい気持ち・やりたいこと』『子のやりたくない気持ち・やりたくないこと』を重要視しています。

自分のやりたいと思ったことが、成功・失敗、面白い・つまらないは関係なく、存分にできる経験ができること。
自分のやりたくないと思ったことを“大人から働きかけられたから”という理由で強制され、自分の意見が通らない経験をできるだけしないこと。つまり、子どもにしょうがなく従ってもらう育児、許してもらう育児をしないように心がけています。


「死んだ方がマシだ」の反対


主体性をもち、自己肯定感をさげずに成長していったとして、
生きることが楽しく愉快で、気付かぬうちに絶対的幸福に溢れていることは、どういうマインドにつながっているのでしょうか。

私が思うに、
『死んだ方がマシだ』という気持ちの反対『まぁ、生きてりゃなんとかなるか』というマインドにつながっているのではないでしょうか。

私は死は絶対悪だと思っていませんが(以下の記事に詳しく書いています)、自分勝手なことに我が子にはどうしても生きていて欲しいのです。
なので、そういうマインドを我が子が持ってくれたら、これ以上嬉しいことはありません。


【知育】で結局どうなるの?

話を戻して、【知育】が【幸せ】につながるのか私なりに結論づけたいと思います。

【知育】をして
【イイ成績】をとって
【イイ学校】に入って
【イイ会社】【イイ職業】に就いて
順調に進んでいけば、親はホッとするかも知れませんが、それは“しょうがなく従ってもらう育児”の延長になってはいないでしょうか。
逆に、順調に進まなければ(不合格になったり、不登校になったり)、それは【幸せ】でないのでしょうか。


順調に進んだ場合、周りより物質や欲望が充足している状態なので相対的幸福は得られるかも知れませんが、
そこに“親を満足させた”“相対的幸福はある”こと以上のものを見つけなければ、
結局は本当の【幸せ】にはなれないと思います。

そして、子どもの頃にレールを引けば、大人になるまでに失ってしまう大事なことも少なくないかも知れません。



おまけ 自己肯定感は『高める』ものではない

保育の研修にて学んだのですが、
自己肯定感は、3歳までMAXで(ただし私は3歳までは全員に当てはまるとは思いません)、
そこから下がっていくもの だそうです。

なので、子どもの『自己肯定感を高める』ではなく、正しくは『自己肯定感を下げない』ことが求められます。

余談ですが、
かといって一度下がった自己肯定感は絶対に上がらないのかというと、そんなことはないと思います。私自身がそうだからです。
私は自己肯定感がとてつもなく低く、しんどい思いをしてきましたが(例えば、思春期は大事な友人達すら、私を憐んで友達やってくれてると思っていました)、
夫に出会い「大好きだよ」「可愛い」と毎日言ってもらって、それが嘘じゃないことを身に染みて感じて、それから数年経ち自己肯定感が前よりも高くなったことを体感しています。最後は惚気かよ



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