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短編「使用禁止の世界」(読了時間15分)

「使用禁止」と張り紙されたトイレの個室を見て、ふと思った。あそこの中には、ずいぶん長い事誰も入っていないのだろうな、と。

 駅の裏の、忘れられたような場所に昔からある公衆トイレだった。繁華街とは逆方向で、人通りは少ない。窓が無い上に電球が切れたままで、中は昼でも薄暗い。汚物を混ぜ込んだコンクリートの壁は、表現し難い色にくすんでいる。壁の一部が窪んでいて、そこに仕切りが付いているだけの、古い小便器が並んでいる。例え近くを通る人であっても、好んでこんなトイレには入らないだろう。駅の中には綺麗なものがある。

 それでも駅を出てから寒さで尿意を覚え、駅の階段を戻るのが億劫になった時なんかに使う人がいる。今の僕が、まさしくそれだ。

 僕の家は駅のこちら側にある。だからごく少ない頻度ではあるが、子供の頃からこのトイレを使う事があった。詳しく覚えているはずなんて無いけど、十年以上前から使っていたと思う。だがその当時から、三つある個室の一番右のドアには使用禁止の張り紙がされていた。

「あの黄ばんだ紙切れが貼ってあるだけなのにな」

 小便器で用を足しながら、思わずつぶやいた。その個室の鍵は、使用可能を意味する青い表示が見えている。一押しすれば、簡単に開くはずだ。それでもあのドアはきっと十年以上開いていないのだろうと思う。その理由は、入り口から漏れ入る光に浮かぶ、使用禁止と書かれた紙切れ一つだけだ。あんな紙切れ一枚が、都会とは言えないが多くの人が利用する駅のすぐ裏に、誰も入らない空間を作り上げている。それが何か不思議に思えた。

 用を足し終わった僕は、入り口から射す夕暮れの光に背を向けた。何度もこのトイレに入ったはずなのに、初めての事だ。

 僕はカサカサに干乾びた張り紙に、左手を押し付けた。カサカサなのに、なぜか湿ったような感覚が伝わってくる。立て付けが悪いのか、ぐぎぎぎ、と言う音を立ててドアは少しだけ抵抗した。だがほんの少し力を込めると、諦めたように動き始めた。

 もう少し押せば中が見える。だがそう思った瞬間、またドアは動きを止めた。錆びた蝶番が動きを止めようとするのとは別。内側から、ドアを押し返そうとする力が存在した。

「……誰?」

 使用禁止の中から、声がした。

 この汚物塗れのドアに似合った、湿った声だった。

「あ、すいません、誰か入ってるとは思わなくて」

 思わず上擦ってしまった自分の声に少し苛立つ。だけど使用禁止の中から聞こえる声は「そうか、そうなんだよね」と、妙に感心したように呟いた。「誰かが居るなんて思わないよね」

 それはその通りだった。『彼』の存在は、僕の想像の全く外側にあった。

「そうだ、さっきの質問に答えてよ」『彼』が聞いた。

「質問?」

「君は誰?」

「スズキケンジ」

 無意味な言葉が口からこぼれる。僕は間違いなくスズキケンジだけれど、スズキケンジを知らない人にとっては何の意味も無い言葉だ。スズキケンジを知っている人間に対してのみ、僕がスズキケンジである意味はある。

 だけどやっぱり中の彼は「そうか、ケンジか」と納得したような、でも落胆の色も浮かぶ、意味深そうな返事を返してきた。

「今度は僕が質問していいかな」

「そうだね、どうぞ」

「質問は同じ。君は誰?」

「僕は僕だよ。ケンジは名前を言ったけど、僕は自分の名前を忘れちゃった」

 やっぱり無意味な言葉が返ってきた。ただ、『彼』が例え名前を言ったとしても、それは僕の知らない名前で、やっぱり僕にとって無意味だったと思う。

「じゃあ、君は何でここに居るのか、それを聞かせてくれないか」

「ケンジ、焦らないでよ。質問は僕の番だよ」

 使用禁止の中の『彼』は、楽しそうに笑った。やっぱり湿った灰色の声だけれど、どこか子供っぽさも感じさせる声だ。もしかすると、僕より年下なのかも知れない。

「何が聞きたい」

「そうだね、じゃあやっぱり同じ質問。ケンジは何でここに居て、ドアを開けようとしたのか」

 声だけが聞こえている。まるで、目の前の張り紙自体が喋っているような錯覚を覚える。使用禁止の中の『彼』は、何者なのだろう。その疑問は、揺れる炎のように怪しい魅力を持っていた。

「なんとなく、だよ。使用禁止って昔から貼られているこのドアの向こうに何があるのか、ふと気になっただけだ」

「嘘だね」

「嘘じゃないって」

「前からケンジはこのドアを見ていたんだろう? なのに今まで開けようとしなかった。それが今日は開けようと思ったってのには、何か意味があるはずさ。なんとなくじゃない」

 意味。そんなものは無い。だが今日がいつもと違う日だったのは確かだ。

「彼女と別れた」

 扉の向こうの『彼』の表情は分からない。どんな顔をして話を聞いているのだろう。

「恋して恋して、相手の全てを知りたくて、知ってしまって。近づきすぎた僕らは駄目になった。最初に彼女が僕らの間にあるモノを見失って、僕も彼女への気持ちがぼやけていって、別れた」

『知らない部分があること』が魅力的な他の人に、僕の気持ちが揺らいでしまった事も原因だったけれど、言わなかった。

「今日はそんな日だった。でも別に、このドアを開けたのとは関係ないよ」

「……だけど、そんな日にドアを開けようと思ったのは本当さ、ケンジ」

 否定にも肯定にもならない言葉を言った『彼』の声は、笑っていなかった。ゆっくりと、噛み締めるような喋り方。その真剣さは、今日初めて喋っている他人に対するものでは無いように感じた。これは、相手の言葉の中に自分自身の影を見つけた時の真剣さだ。

「君も恋をしてるんだ?」

 僕が聞くと、目の前のドアはしばらく沈黙した。だが何かを決意するような大きな呼吸が聞こえたあと、『彼』は話し始めた。

「ケンジはさっき、僕がここに居るのはなぜかって聞いたね。まずそっちに答えるよ。お仕置きなんだ」

「お仕置き?」

「そう、それで僕はずっとここに居るんだ。とても長い時間さ。もう、何年とか分からない。でも最初は僕はまだ子供で、小さくて、無力だった。お仕置きだって言われて、母親に閉じ込められたんだ、ここに。それで一生出てくるなって言われた。でも僕は一晩泣いて、朝になってからこっそり目の前のドアを開けたんだ」

 そしたらどうなったと思う? と『彼』は哀しそうに笑った。

「笑えるよ、母親はまだドアの前に居た。そして僕を殴りつけて、僕の頭がきっちり奥の壁にぶつかるのを見て、勢いよくドアを閉めたんだ。頭から結構血も出たよ。でも、母親はまた、一生出てくるなって言ったんだ」

「君が何をしたのか分からないけど、お仕置きとしては厳しいね」

 本当はもっと色々な感情が心の中に生まれたけれど、それをうまく言葉にできなくて、僕は冗談のように言った。

「厳しいなんてもんじゃないよね。僕は子供だったけれど、一晩経てば母親の怒りも収まってるだろうと言う計算ぐらいはできた。でもドアの前に立ってて、子供の僕を親の敵みたいに睨んでるんだよ。愕然とした。でも僕はまた、今度は前より長い時間が経ってからドアを開けてみた。もう笑うしかないよね。まだ母親はそこに居て、少しも減っていない怒りを顔に浮かべていたんだ。たぶん、ずっとその場所に立っていたんだろうね。何十時間だっただろう。母親にとってもむちゃくちゃな労力だよ。忘れたけど、怒られた理由だってちょっとした事だったのに、そこまでする意味が分からなかった。ああ、この人狂ってるって思ったよ。今まで母親から僕に与えられてきたはずの常識って枠を、その本人にぶち壊された。もうこの人には常識は通用しないって感じたんだ。それ以来このドアは一度も開けてないよ。いつまで待っていたって、さすがにもう居るはずが無いって頭で理解したって、ドアの前でこっちを睨む母親の姿が消えてくれないんだ」

 トイレのドア越しに淡々と語られる彼の半生を、僕は黙って聞いていた。

 もう絶対に居ない母親の姿に怯えて、薄暗い使用禁止の中の世界に閉じこもっている『彼』。一枚の紙が作る密室の中で、ずっと一人で時間を刻んでいた。それは僕やそれ以外の人たちが感じた時間よりもずっと長かっただろう。

 その長さを想って、薄ら寒い感覚を覚えた。

「そんな生活、なんで続けていけるんだ? 僕なら絶対すぐに頭がおかしくなって死んでしまう」

「その答えなら、さっきケンジが言ったじゃないか」

 そう『彼』に言われて、僕は自分の発言を思い返した。さっき何を言ったっけ? 答えが見つかるのと同時に、『彼』はそれを声にした。

「僕は恋をしてるんだ」

 恋をしてるんだ。自分の感情を自分自身で確かめるように、『彼』は二度、そう繰り返した。そして「それだけが僕を支えているんだ」と言った。

 恋。誰かを自分だけの手で幸せにして、自分も一緒に幸せになりたいと願う心。独りよがりだったり思い込みだったりするけれど、それが強い力になる事がある。支えになる事が確かにある。恋をしている日々、人は時にヒーローにだってなれる。

 だけど、一人で恋は出来ない。『彼』は誰に恋をしていると言うのだろう。この光も届かない密室の中で、孤独な時間を支えてくれるほどの恋を、誰に。

「ケンジの考えている事は分かるよ。こんな場所にずっと居て誰に恋できるんだ、って事だろ」

「当たってる」

 僕が素直に答えると、『彼』は楽しそうに笑った。

「僕は本当に恋をしてるんだ。でも、ケンジに相手を言っても呆れられるか、もしかしたら、それは恋じゃないって言われるかも知れない」

 そう前置きをしてから、『彼』は意味の分からない事を言った。

「エッチしよ、ハートマーク、エミ」

 それに続けて、いくつかの番号を並べた。どうやら電話番号らしい。

「なんだい、それ。もしかしたらトイレの落書き?」

「当たってる」

 照れるように笑いながら、『彼』は僕の言葉を真似た。

「今僕の目の前にある、落書きさ。何回も文字を撫でたから、もうだいぶ霞んでしまったけどね。ドアの内側に書かれてるんだ。ドアのこちら側には、もうずっと僕しか居ない。この文字は……エミは、きっと僕に向けてこの言葉を言っているんだ。ずっと眺めている内に、そう思うようになった。さっきドアが動いた時は、もしかしたらエミが会いに来てくれたのかと思ったよ」

 僕の名前がケンジだと分かった時、『彼』の声に含まれた落胆の意味を知った。僕を知らない人にスズキケンジと名乗っても意味が無いと思ったけれど、エミじゃないと言う点で意味はあったようだ。

「君はその、エミに恋をしてるのか」

「そうさ。エミの存在が、この日々を支えてくれている。きっと今も、僕から電話が来るのを待ってるんだ。僕はどうにかしてエミに電話しなきゃならない。それまでは絶対に死ねない。エミに会わなきゃならない」

 僕は気付いた。『彼』の声から、最初あった『照れ』のようなものが消え始めている。『落書きの名前に恋をしてる僕ってバカだろ』そういう自嘲が含まれていたはずの声は、ただ真剣に恋する人に向けられた言葉に変わっていく。

「ああ、本当に母親が恨めしいよ。いつになったら消えてくれるんだろう。母親が居なくなれば、僕はすぐにでも外に出る。公衆電話に駆け込んで、エミに電話できるんだ。番号は完璧に覚えてる。間違える心配は無いよ。いつも見てるんだ。間違えるもんか。ここから出られさえすれば、全てはうまく行く。なのにそれが出来ないんだ」

 どんどん真剣さを増してゆく言葉を聴きながら、僕は自分の左ポケットの膨らみに手をやった。手のひらにちょうど収まるぐらいの感触がそこにある。

 個室から出られなくても、電話をする事は出来る。ずっとそこに居る『彼』は、その事を知らないのだ。今、個室の上の隙間から僕がスマートフォンを放り込めば、すぐにでもエミに電話が出来る。ずっとずっと変わらなかった彼の人生が、変わる。

「どうしてもエミに電話したいんだよね」

「そうさ、ケンジ。その思いが僕を支えてくれている」

「本当にエミの事が好きなんだね」

「そうさ、ケンジ。だから僕はこの人生を生きられる。いや、生きなくちゃならないのさ」

 入り口から入ってくる光が弱くなってきている。もう夜が近い。夜には、昼よりも強い孤独が『彼』を襲うのだろう。

 遠くから車の音がする。その音が聞こえた時、他人の存在を意識した『彼』は、さらに自分の寂しさを感じるのだろう。

 それは、どんな日々だろう。僕がどれだけ想像しても届かないほど、その孤独は深いのだと思う。

 僕は言う。

「このドアを押すまで、君と喋っている自分なんて想像もしていなかったから、今でもなんか不思議な気がするよ」

「それはそうだろうね。使用禁止と書かれた個室の中に、誰かが居るなんて思わない」

「話せて良かった。でも僕はそろそろ帰るよ。いつかエミに電話できるといいね」

「ありがとう、ケンジ。僕も話せて良かったよ。きっといつか、僕はこのドアを開ける。そしてエミに電話するよ」

「ああ」

「じゃあね」

「じゃあ」

 別れの挨拶を交わして、僕は公衆トイレを出た。やはり外は薄暗く、太陽の姿は見えなくなっている。その代役を買って出るように、所々の街灯が灯り始めていた。

 ポケットからスマートフォンを取り出して、紅灰色の空にかざして見た。僕は結局、これを『彼』に渡す事はなかった。落胆させたくなかったからだ。

 電話はきっと、繋がらない。例え繋がったとしても、エミと言う女の子が出る可能性は限りなくゼロに近い。そうなれば、『彼』は生きるための支えを失ってしまう。電話が出来ないからこそ『エミ』に恋をする事が出来るのだ。電話が出来ないからこそ『エミ』は魅力的なのだ。その事は、『彼』も分かっているのかも知れないと思う。だからこそ、母親はいつまで経っても消えないのでは無いだろうか。

 ふと別れた彼女の事を思い出す。僕は今でも彼女を愛していると思う。でも、彼女の中から『知らない部分』が無くなっていくにつれて、恋は薄れていった。何も知らずに恋していた時に感じてた魅力は、知る事で消える。付き合う前に勝手に思い描いた彼女など、現実には存在していなかった。僕らは別れた。『彼』の恋はそうなって欲しくなかった。

 もちろん、そんな事を言っていては何も行動なんて出来ない。知る事で例え落胆しても、そこから新たに進んで行くのが正しいのかも知れない。

 行った事の無い場所に行きたい、やった事の無い事をやりたい、持っていない物が欲しい、知らない事を知りたい。実際に行動した後に、同じだけの魅力がそこにあるとは限らなくても、ただ思っているだけよりは行動した方がいい。そういう考えこそが前向きってものだ。

 でも今日は。せめて今日だけは、知らなくて魅力的なものは、そのままにしておきたい。別れて、自分が知らない場所に彼女が行ってしまった途端、また魅力を感じているような愚かな僕は、そう思った。

 だからこそ、ドアも開けなかったのだ。

 公衆トイレを振り返ってみる。忘れられたように立っている、夕闇に溶け込みそうな灰色のコンクリート。その内側で交わした、奇妙な会話を思い出す。


 たぶん『彼』の言った事は全部、嘘だ。


 母親の影を恐れて何年も使用禁止のトイレで過ごし、でも壁の落書きに恋をしながら生きているような『彼』は、居ない。だってそうだろう。トイレの個室にずっと一人でこもっていて、どうやって食料を手に入れる? 恋をしていようが何だろうが、物を食わなければ人は死ぬ。誰が何の目的でそんな嘘をつくのかなんて知らないけれど、僕があのドアを開けていても、想像していたような奇妙で魅力的な存在は居なかっただろう。

 でも結局、僕は『彼』の姿すら見ていない。ドアの中がどうなっているかなんて知らない。だから思いつきもしない方法で、食料を得て生きているかも知れない。または食料がいらないほどの異質な存在なのかも知れない。『彼』が存在する可能性は、ゼロになってはいないのだ。でも……ドアを開けていたら、きっとゼロになっていた。

 だから使用禁止。あのドアを開けさえしなければ、僕は、中に待つ『知らない世界』を想い続けられる。

(了)

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