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【日常で思うこと】夢の父
こういったことを記すのも憚れるかもしれないが、父の命はそう長くない。
今年の春に癌が見つかり、今では病室のベットで寝たきりの日々。
食べることも話すこともできず、ほとんど寝て過ごし、たまに目を開けるが虚空の天井を見上げているばかりだ。
大食漢で自転車や山登りを好むエネルギーの満ちた父には、もう会えない。
でも、大きな身体と太い腕に捕まって遊んでいた幼少期の記憶がこびりついていて、枯れ枝のように細くなった彼の姿もどこか非現実的に感じる。
先日、見舞いに行った日の夜、父の夢を見た。
ぼくは高架線を走る電車の中にいた。
東京の片隅。車窓から見える夜の工業地帯は暗く、たまにプレハブ小屋や民家から漏れる灯りが乾いた道路を照らしていた。線路の終端駅の向こう側には巨大な影を宿した団地が連なる。社会人になりたての頃に暮らしていた都営線とよく似ていた。
揺れる車内。息子が転ばないように、ぼくの太ももを掴んでいた。車窓に向けた大きな眼に闇夜を映し出している。
車輪の音と同時に大きなビルが左から右へ流れる。青白い光を放つ無機質な塊はこの街を支配下に収める旗艦のように見えた。
「あれは何?」
息子はガラスにが小さな人差し指を当てた。
「さぁね」と、ぼくは首を傾げた。
「お店が入っているビルかな。もしくは会社か、マンションかも」
「行ってみたい」
間髪いれず返ってきた息子の言葉に、最初に“お店”と行ってしまったことを後悔した。きっと、オモチャや遊具のあるショッピングモールを想像しているのだろう。
もう閉店時間だよ。
また今度連れて行ってあげるよ。
ぼくは諦めさせる理由を考えていた……が、自分が何で電車に乗っているのか把握していないことに気づく。
ぼく達はどこへ向かおうとしているのだろう。
思い出せないのなら、大した用事でもないのだろう。
「じゃあ、行ってみようか」
ぼくは息子の手を握り、次の停車駅で降りた。
広く静かなコンコースにピン・ポーンとあの音響案内が鳴っている。駅員も乗客もいない。階段を降りて、ロータリーに停まっている黒いタクシーに乗る。
「あそこまで、お願いします」
ぼくは少し頭を下げて、フロントガラスから見える青白いビルを指した。
運転手は前を向いたまま低い声で返事をした。
暗く、静かな道。
ぼくも息子も、運転手も口を閉ざしていた。
暖房で澱んだ車内で、モーターとウィンカーの音がやけに大きく聞こえる。
「着きましたよ」
ルームランプが灯り、運転手の顔が照らされる。
父親だった。
髪もあり、肉付きの良い少し前の姿で。
アパレルメーカーの社員だった彼が、なぜタクシーを運転しているのか。
「忘れ物がないように」
疑問に満ちたぼくを諭すような笑顔を向ける。
「おじいちゃん」と息子は跳ねた声をあげる。
「じゃあ、気をつけて」と、短い言葉を発した父は降車するぼく達を見届けてドアを閉めた。
「行かないで」と叫びたい衝動に駆られたが、下唇を噛んだ。
代わりに息子の手を少しだけ強く握る。
黒いタクシーは、遥か伸びるアスファルトの上を走っていった。
そこで夢は終わった。
なぜタクシーの運転手が父だったのか。
あの青白い光を放つビルには何があったのだろうか。
答えなんて出てこないのに、フッと考えてしまう。
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