【小説】白い世界を見おろす深海魚 83章 (白と灰色)
【概要】
2000年代前半の都内での出来事。
広告代理店に勤める新卒2年目の安田は、不得意な営業で上司から叱られる毎日。一方で同期の塩崎はライター職として活躍していた。
長時間労働・業務過多・パワハラ・一部の社員のみの優遇に不満を持ちつつ、勤務を続ける2人はグレーゾーン(マルチ)ビジネスを展開する企業『キャスト・レオ』から広報誌を作成する依頼を高額で受けるが、塩崎は日々の激務が祟り心体の不調で退職を余儀なくされる。
そんな中、安田は後輩の恋人であるミユという女性から衰退した街の再活性化を目的としたNPO法人を紹介され、安価で業務を請け負うことを懇願される。
人を騙すことで収益を得る企業と社会貢献を目指すNPO法人。2つの組織を行き来していく過程で、安田はどちらも理不尽と欲望に満ちた社会に棲む自分勝手な人間で構成されていることに気づき始めていた。本当に純粋な心を社会に向かって表現できるアーティストのミユは、彼らの利己主義によって黙殺されてようとしている。
傍若無人の人々に囲まれ、自分の立ち位置を模索している安田。キャスト・レオの会員となっていた塩崎に失望感を抱いきつつ、彼らの悪事を探るため田中という偽名を使い、勧誘を目的としたセミナー会場へ侵入するが、不審に思ったメンバーによって、これ以上の詮索を止めるよう脅しを受ける。だが、恐怖よりも嫌悪感が勝っていた。安田は業務の傍ら悪事を公表するため、記事を作成し山吹出版に原稿を持ち込み、出版にこぎつける。大業を成し遂げた気分になっていた安田に塩崎から帰郷するという連絡がくる。さらに、キャスト・レオの中傷記事の筆者であることが勤め先に知られることとなる。
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83
いつも、それを上着のポケットに入れていた。
塩崎さんのデスクの引き出しで見つけたときから。
銀色のシートに包まれた抗鬱剤は、お守りのようなものだった。嫌なことがあると左胸に手を伸ばして、スーツ越しにそれを撫でた。まだ飲んだことのない薬の効力を想像する。最初は、それだけでざわついた感情がおさまっていた。
日に一回は、ポケットからそれを取り出した。包装された赤と白のカプセルを眺めていると深夜に塩崎さんが見せる疲れた笑顔を思い出す。
彼女は、いつからこれを常用していたのだろうか。一ヶ月前……それとも半年前か。
もしかしたら出会ったときからかもしれない。そんなことを考えて、ぼくは何も彼女のことを知らなかったのだと痛感する。
お守りだった抗鬱剤が、本来の“薬”の役割を果たしたのは昨夜のことだった。
川田部長との面会が終わったとき、飲んでみよう……という思いが頭をかすめた。医者の診断を受けずに飲むことに対して、なんの躊躇もなかった。それよりも、こんな小さなカプセルを2、3錠飲んだだけで気分が変わるものか、という疑心と好奇心が強かった。決心、というほどのものでもない。それは、非喫煙者だった人間がタバコを吸う感覚に似ていると思う。
ぼくは会社の帰りにコンビニで買った500ミリリットルのコーラと一緒に、2錠だけ飲んだ。一瞬、脳の中心が携帯電話のように小刻みに震えたのは薬のせいか、一気に飲んだコーラの糖分せいか分からない。その日の効果はそれだけだった。
翌朝になってもなんの変化も感じられなかった。胸の奥を圧迫する憂鬱が消えたわけでもない。世界は白いフィルターを通したように、殺伐と映っていた。やはり常用しなければ、効果が出ない薬なのかもしれない。
キャスト・レオに謝罪へ行く直前にトイレに行き、今度はミネラルウォーターで3錠流し込んだ。もしかしたら、ぼくはこの薬が効きづらい体質なのかもしれない。そう思っていたけれど……。
医者は、その薬が原因かどうかは分からないと首を振った。たしかに、あの抗鬱剤は摂取すると失神することもあるという。でも、強烈な緊張を強いられて、脳に血液と酸素が上手く流れなくなったためだとも考えられるという。
「とにかく、もう処方されていない薬を勝手に飲まないでくださいね」
メガネを掛けた神経質そうな医者に、見下すように言われた。少し腹が立ったが、まぁ、たしかにその通りだ。ぼくがどんな経緯で、どんな気持ちで飲んだのか。彼は知らないし、そんなことは診療する上で、どうでもいいことだ。処方箋もなく勝手にちょろまかしたぼくが悪いのだ。
「すみません」と医者に頭を下げる。今日は謝ってばかりだ。
病院の出入り口に青田さんがいた。紙パックのジュースを飲みながら、黒いカバーのかかったソファーに座っていた。
なんでいるんだよ……。
正直、もう彼女の顔なんて見たくなかった。
彼女だけじゃない。誰とも会いたくない。
「安田君ッ」
立ち上がり、ぼくの側に近づいてきた。
「大丈夫? 心配したんだよ」
フルーツジュースの甘ったるい息が顔にかかる。
紙パックに刺さっていたストローの強い噛み跡を見ながら「ご迷惑をお掛けしました」と言う。うんざりした気分のせいか、薄ら笑いさえ浮かべてしまう。
「ビックリしたよ。突然倒れて……呼んでも反応しないし。このまま死んじゃうのかと思った」
青田さんに強い警戒心を抱いていた。最初に会ったときから、ずっと。隙あらば、ぼくを会員に誘うのではないかという懸念があった。塩崎さんが、されたように。
欲望を刺激して、素人から利益をむさぼるビジネス。自信に満ち溢れた斎藤さん、彼のような人間を羨望の眼差しで見つめる会員。セミナーで飛び交うポジティブな言葉の数々。そして、初対面から親密な関係に持っていこうと近づいてくる青田さん。なにもかも苛立ちをおぼえる。
「顔色悪いよ」
青田さんは背伸びをして、ぼくの額に手をのばした。熱を確かめた後で、傷口に貼ってある巨大な絆創膏をなぞる。
「大丈夫です。ちょっと疲れただけです。とりあえず、ここから出ませんか?」
院内の暖房は強く、息苦しかった。
「うん、そうだね。どこかで休んでいく? 近くに喫茶店があったよ」
ぼくは首を振った。
「いえ、ちょっと外の空気を吸わせてください」
自動ドアの向こう側から、灰色に塗りつぶされた曇り空が見えた。凍えた空気の中を行き交う人たちは、うつむき加減にコンクリートの上を歩いている。その光景を眺めていると落ち着いてきた。自分も早くこの冷たい光景の一部になりたかった。
つづく
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