人格否定されてきた人間が褒める育児について考えてみた

保育園でも言われたし本にも書いてあるしネットにも載っている「子どもを褒めましょう」。
褒めて愛情を伝えて自己肯定感を育てましょう。
褒められた子どもは自信を持ってさまざまな事に挑戦できるようになっていきます。

そうですか。
じゃ、私の褒めが愛情が足りなかったのかな?
うちの子どもは、結構自信がない子。
赤ちゃんの頃から臆病で人見知りで他の子どもを怖がり、歩き出すのも遅かった。
超高速はいはいを長ーく見守っていた。

何でもたくさん褒めてきたつもりだった。
あまり運動神経のいい子ではないから、
保育園で跳び箱などがあると、自分だけできないことを気にしていることもあった。
「うまくいかなくても大丈夫」「ママと一緒にやってみよう」「毎日、自分では気付かなくても少しずつ上達しているよ」「頑張ったの、分かっているよ」
ずっとこの言葉を繰り返してきた。
それと、
「大好き」「可愛いよ」も。
毎日、毎日。

これらは私が掛けられたかった言葉である。
ついに一度もこんなことは言われなかったけども。
「みっともない」
「出来ないのはあんただけ」
「駄目人間」
「子育て失敗」
なんて言われてきたから、そんな事は言わないようにしようと思って育ててきた。

子どもを褒めるたび、昔の私の心が痛む。苦しくなる。
いいなぁ、こんな風に言われて。
今更馬鹿馬鹿しいのだけど、我が子が羨ましくなってしまう。

けれど、子育てというのはやはりセオリー通りとはいかないようで、どんなに褒めても子どもは挑戦を嫌がる。
挑戦といっても一緒に縄跳びの前飛びをやってみる、とかそういうレベルのことだ。
「できないからやらない」
だそうである。

こんな事をこの子が生まれてからずっと繰り返してきて、私はもうほとほと嫌になってしまった。
やってみもしないのにできないと決め付ける。

一回褒めるたびに心が抉られるような気持ちになる。
それでも褒めて褒めてきた。
こんなに褒めてきたのに、何で?
まだ足りないっていうの?
タイミングを見計らって、一緒に練習してみようって言ってきたのに。
何で、どうして、と。
夫は多忙で、私が育児の殆ど全てを担ってきた。
祖父母は孫の人格否定をしてくる可能性があるので頼れなかった。
運動ができないのは公園遊びが足りなかったから?
祖父母と交流させてあげられなかったから?
私の育て方のせいで、こんなことになってしまった。

保育園の行事でノロノロと鈍臭い我が子。
自信無さげな顔で動きが小さい。
「できないから、恥ずかしいから」
いつもそう。
間違っていても笑顔で取り組んでいる子たちがまぶしい。
終わった後、「頑張ったね」「かっこよかったよ」
と絞り出すのが精一杯だった。
放任ママの子は動きが俊敏だったなぁ。
責任感と罪悪感と理不尽を感じて、その夜子どもが寝てから泣いてしまった。

夫は楽天的でおおらかで無責任なタイプだ。
「いいじゃん、別に。本人の得意を伸ばせば」
などと良いことを言っている風だが、
本人の「◯◯ができない」という思いにはあまり寄り添っていなくて、
アニメでも見せながら鼻をほじって横になっていることが多い。
両極端な夫婦だなぁと自分でも思う。

我が子は運動ができない代わりに(?)話せば分かるというか、理解力や洞察力がある。
大人と話しているような気分になる時もある。

今度はマット運動ができないとか何とか。
また「無理、やらない」と言い始めた。
私は悩み疲れて、大人に話すつもりで切り出した。

「あのさ、『できない』っていつも言うけどそれは練習してないからだよ。できている子はお家で沢山練習しているからだよ。
最初から何でもできる子はいないよ。
◯◯だって練習したら少しずつできるようになるよ。
ママは練習してないのに『できない』って毎回言われてもう嫌になっちゃった。
できるようになりたいなら一緒に頑張って練習しよう。できたらきっと楽しいよ。
もしできなくても、頑張るのはかっこいいことだよ。
できなくても、失敗しても大丈夫。
一回でいいからさ、お布団の上で挑戦してみようよ。
やってみな!」
あぁ、言ってしまった。
やればできる。頑張ろう。練習!
松岡修造みたいなティモンディ高岸みたいな。
体育会イズムな言葉。

できるできないに拘ってはいけない。
成果主義はよくない。
頑張れと言いすぎてはいけない。
ありのままを受け入れて、肯定して。
できないあなたでも大丈夫。
そう言わなければならないと強く信じて子どもを育ててきた。
だから、こんな言い方をしたのは初めてだった。
否定されないためだけに頑張り続けた私のようになってしまわないだろうか。

あぁ、こんな事言ってよかったのか…。
我が子はしばらく静かに考えて、
「ママ、やってみるよ」
と言っていそいそと布団の上に手をつき始めた。

あからさまに運動ができなさそうなその動きに、申し訳なさやら責任感やら色々な気持ちが込み上げる。
「こう?」
私も補助して、コツを調べながらあれこれ練習した。
やはりセンスがなくて、なかなか上手くはいかない。
でも、チャレンジするたびに褒めて褒めて補助した。

頭で理解しないと動けないタイプのようなので、マット運動のやり方を解説した本を買い、一緒に読んだ。
私がその本を読んでいると、自分で布団を持ってきて練習を始めた。
何だかんだでほとんど毎日練習をするようになって、数ヶ月。
後ろ回りはできないものの前回りはそれなりに上達した。

よく頑張ったね!と感激していたら
「まぁ、わたしはマット得意だからね」とのこと。
あの声かけが正しかったのか、今でも分からない。
ただ、我が子はそれで前回りを習得して小さな「得意」を見つけたようだ。

別にこれをきっかけにチャレンジングな性格になったというわけではなく、相変わらず「できない、やらない」は日時茶飯事である。

その度に悩みながら、「一回でいいからやってみな」と真剣に言う。
一緒に練習する。
やりたくない気持ちを理解しない毒親だろうか。
でも、せっかく可能性に溢れた幼児期に、「できない」で未知の楽しみを閉ざしてほしくなかった。

「やらなくていい、ありのままでいい」を認めるのは夫に任せて、私は口うるさくて嫌なことをやらせようとする母親でいいか、とも思うようになった。

本気で嫌がれば無理強いはしない。
一緒に真剣に取り組む。
これでいいのかは分からない。
私に抑圧されて自分の意見を言えない子になるだろうか?
だからといって「何もかもができない」と思い込んでいるのを放置してもいいのか?
私は子ども時代を劣等感まみれで過ごしたから、その苦しさがよく分かる。
葛藤は続く。
おそらくずっとこれからも。

スモールスモールスモールステップで、進歩した時の「できた!」の笑顔が眩しい。
正解は分からないけど、我が子に必要とされる間は
小さな一歩を抱きしめられる親でありたい。


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