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自殺したいと思う気持ちに向き合ってみた。
先日、俳優の三浦春馬さんが自殺で亡くなったという訃報が届いた。
わたしはその頃たまたまツイッターを見ていて、トレンドにそのことが上がり、正直彼のイメージと自殺というワードがどうも結びつかなくて、最初はピンとこなかった。
たぶん彼の家族や友人、会社の人、ファンの人、そういう人以外からみた三浦さんは、ストイックで真面目、笑顔がかわいらしくてどこか上品な清潔感のある青年というイメージだったと思う。まるで欠点なんて一つもないような、闇なんて一つも感じさせないような、そういう。例に漏れずわたしもそういうイメージを持っていた。
三浦春馬さんと聞くと、わたしの中で印象に残っているエピソードがある。
確かキンキーブーツの頃だったかな。ホンマでっかTVにゲストで出演していた際、芸能人が専門家たちに悩みを相談するというコーナーで、彼は趣味が多いだか、続かないだかの相談をしていた。
それを受け、確か精神科か何かの専門家が、子供の頃に苦労した人は何かで一発当ててやろう! という深層心理で、多趣味になりやすいというような回答をしていた。
わたしも、彼とはだいぶ違うけれど、子供の頃に苦労したし、趣味も割と多い方だと思う。興味が多岐にわたって、結局半端になることもある。だからそういうもんなんだぁって自分のこととして覚えていて、思い起こせばそれは三浦春馬さんだったなぁと思った。(違ったらごめんなさい。でもそうだったはず)
わたしはそれを見て、彼は子役から芸能の仕事をしていたし、きっとその頃に苦労したに違いないと安直ながら思った。
三浦さんの訃報を聞いて、自殺の理由は定かではないけれど、真面目な人ほど鬱になりやすいとよく聞くのを思い出した。
周囲の人が語る彼は、多くの人が思い描いていたように、ストイックで真面目。真剣に芝居に向き合っていた。それでいて、とても優しく笑顔が素敵だったと語られることも多い。
きっと本当にそういう人だったんだろう。
でもその反面、色々と悩んでいたという話も聞くし、周囲に見せる顔と見せない顔にはいくらかの差があったんだろうなぁというのは想像に難くない。
多くの人に愛されて、期待されて、そしてそれに応えてきた人が、命を絶つというのは、きっとそれを投げ打ってでも終わりにしたかったほどの何かがあったんだろうと思う。
だって、死んでしまったら引き返せないことくらい、わかっていただろう。もし精神的に追い詰められて普通じゃなかったとしても、死んでしまったら生き返れないことくらいは頭に残っているはずだ。少なくとももう絶対に三浦春馬には戻れない。
だから、それでもいいから、終わりにしたかったんだろうと思う。
やすい言葉だけど、それくらい辛かったんだろう。その辛さはきっと計り知れない。
ブラック企業に勤めているなら、辞めればいいのに
いじめられているなら、転校すればいいのに
親に虐待されているなら、家族に暴力を振るわれているなら、逃げればいいのに
自分の容姿が嫌で仕方ないなら、整形すればいいのに
求められた自分になれないなら、求める人を捨てればいいのに
そういう、端から見たらもっと別の方法があったのにと思うような、
それでいて、本人からしたらそんなのもう不可能な逃げ道に見えているような状況でする自殺と、きっと同じなのかなぁと思う。
きっともう冷静な判断なんてできなくて、もう無理だといってこの世を去ったのかなと、ブラック企業に勤めてた時骨折したくて階段からころげ落ちようとしたくらいまでならなったことがあるわたしなりに想像する。
わたしの人生の中で一番近いのがこの感情だから、足りないけど許してほしい。
でもそうやって亡くなった彼らは、今頃どこかで後悔してないだろうか。
突然のオカルト思考で恐縮だけど、
今ある人生を終わらせたら、確かに苦しみから解き放たれて、一瞬はとても楽な気持ちになると思う。
でも、冷静になって振り返ってみて、急に他の道が見えてきたり、やりたかったことや会いたかった人やそういう心残りが湧き出てきて、もう戻れないことに絶望するんじゃないだろうか。
もちろん、死後の世界とか、天国とか地獄とか、幽霊とか、生まれ変わるとか、そういうことが本当にあるかはわからない。
でも仮に、それとはぴたりと同じでなくても、何かしらそういう死んだ後の時間があったとしたら、後悔してしまう人はいるんじゃないかと思う。
苦しみだってある程度喉元過ぎれば忘れるから。抜け出たあともいつまでも同じ熱量でいるわけじゃない。
それに気付いた時、あぁやっぱり自殺なんてしちゃいけないなと思った。
わたしは父親に虐待紛いなことをされていた時も、ブラック企業に勤めていた時も、殺してやろうと思っても死のうと思ったことはなかった。それはそれであれだけど。
嫌いな人や彼らから与えられた苦しみのせいで、自分を犠牲にしたくなかったから。でも、それはわたしの苦しみはいつだって他者から与えられるものだったからなのだなと、今になって気が付いた。
他者から与えられた苦しみなら、自分に向けないことだってできる。
わたしは、生きたくても生きられない人がいるんだから自殺なんてするなとは絶対に言わない。
それはまるで、アフリカの子供たちはごはんも十分に食べられないのだから、あなたはステーキを食べるべきではないと言うのと同じような気持ち悪さがある。
その人の命とあなたの命は全く別物だ。
そんな理由で守らなくていい。
だけど、
死後、自分が後悔するかもしれない可能性とかを、ちょっとだけ考えてみるのはどうだろう。
なんだか踏み止まるにはやっぱり弱いけれど、もしそれで踏みとどまれる命が一個くらいあるかもしれないと思ったら、書かずにはいられなかった。
だって、もしかしたらふとした瞬間に、「もういいや、ここから逃げ出して気楽に生きよう」って思えれば、踏みとどまれるものなのかもしれない。
そのきっかけは、思いもよらない些細なことの方が多い気がする。
辛くて辛くて、終わらせてしまいそうな命があって、その人がたまたまnoteに来て、たまたまこれを読んでくれて、なんか急にそうだなって思えたら、わたしはとんでもなく嬉しい。
もしそんな人がいたら、ごはんでも奢るんで、コロナ終わったらお話でもしましょう。えーっと、その辺の居酒屋でいいですか?
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