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『風と木の詩』を読んで

BL漫画の先駆けであり、金字塔である、という種の謳い文句をよく耳にして(発しているのは読者側だ)、タイトルだけは以前から知っていた。

だから、この作品がもしも異性愛を描いた漫画であったとして、同様に私は手に取っていたかと問われると、100%NOであるとは言わないまでも確率は低かったのではないかと思う。

その時点で、私の中にはBLカテゴリーに向ける視線、そういう選別をしたうえでこの作品を購入した事実がまず確固としてある。その下心……とまでは言わずとも、バイアスがあったことの否定は出来ない、というのを、まず白状し、ここに記しておきたい。

この作品を語る時、「BL漫画だけどBL漫画じゃない」――すなわち、意訳するなら「純然たる恋愛漫画である」という旨の発言(レビュー)をする人々を度々目にしてきた。
異性愛とか、同性愛とか、そういった性差は「愛」において重大な事項ではない、ただそのままに受け止めるべきものなのだと。

これは、例えば「腐女子」という言葉に、自虐含め蔑みの意味合いが潜在的に込められて使われていることも由来していると思う。男性同士の恋愛を描いた作品であるというだけで、他の恋愛漫画と比べた時に区別して評価されるべきではない、そうしたカテゴリーの枠で括られ、色眼鏡で見られるのは勿体ない程に優れた作品であると、そういう主張や祈りが故に、このような意見が出てくるのかもしれない。

かく言う私も途中までそう思っていた。
BL漫画、という呼称で世間に認知されるのは何だかムズムズすると。ここに描かれる愛は、ただ愛としてまっすぐに受け入れられるべきものなのではないのか、と……。

けれども最後まで読み終えて、それは非常に自分自身にとって都合の良い消費の仕方だと認識を改めた。
なぜなら、セルジュとジルベール――この作品の主人公2人が幸せに結ばれなかった要因のひとつとして、まず間違いなく彼らが同性同士であったことが挙げられるからである。

そもそも彼らが、彼と彼女、であったなら。
多大なるリスクを背負ってまで学園を飛び出し、駆け落ちする必要があったのか。
パリに拠点を移してからも、ピアノの教師の職を解雇されるような所以はなかったのではないか。

もちろんそれだけが原因ではなく、ジルベールの成長の中に根付くオーギュストの教育や、セルジュが他人からの施しを受け入れられない性格であったことなど、あらゆる障害が2人の身体には複雑に絡みついて、この結末を招いたことは間違いないだろう。
だが、セルジュの父母がセルジュ自身と同じような駆け落ちの道を辿って、短い生涯ながらも確かに幸せな時間を紡いでいたことを思うと、ずっと何かに苦しみながら、ただお互いへの愛だけを1本の命綱として、ひび割れた生活を最初から最後まで続けていた2人に思うところがないとは言えないのである。

そしてここからは単純な感想だが、
私がこの作品で一番苦しかったのは、場所を変えても、肩書きを失っても、結局ジルベールは身を売る――他人から身体を求められる人生から抜け出せなかった、言葉を選ばずに言えば、そうした星のもとに生まれてしまった人間なのだと痛烈に突きつけられたことである。
反して、セルジュにはパリへ向かった後にも、訪ねてくる友人がいる、差し伸べられる手がある、差し込む光がある。そうした恋人と同じ屋根の下で暮らすことが、隣で眠ることが、どれだけジルベールにとって苦しい日々であったのか。

こうした作品を読む度に思うが、結局「死」をもってしか救済は訪れなかったのだと、あたかもこの悲劇的結末がただ唯一の正解であったかのように思ってしまう自分が悲しく悔しい。
だが実際に、駆け落ちした後の2人に対してああすれば良かった、こうすれば良かった、と解決策を提示することは、読者という無責任な外野の立場をもってしてもとても出来ないくらいに……少なくとも私には、救われる道が見い出せなかったのである。

この漫画のことを、私は生涯忘れないと思う。
何かを観て、読んで、吐き出さないと居ても立ってもいられない気持ちになったのはあまりにも久しい。
この作品と、この作品の創造主である竹宮惠子先生に感謝を。

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