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第188回 菅家後集 の巻
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道真は死の直前に自身の想いを込めた46編の詩集『西府新詩』を、都にいる唯一の盟友・紀長谷雄(きのはせお)に届けます。
(ちなみに『西府新詩』は後世に数編が追加されて『菅家後集』となります。)
道真はこの詩集を誰に一番読んでもらいたかったのか?
和歌ではなく、漢詩という形式だった時点で広く一般に読まれることを想定していた詩集ではありません。
道真にとって唯一の理解者である紀長谷雄、さらには自らの教え子でもあった醍醐帝にこそ読んでもらいたかった…そう強く願っていたことでしょう。
マンガでは登場しませんでしたが、紀長谷雄は道真物語の重要人物。 道真にその才能を認められて弟子となりぐんぐん出世した人です。 宮廷に敵がなく、藤原基経・道真・宇多・醍醐・時平と、あらゆる権力者から認められ愛された不思議な人物です。 道真にとって長谷雄は弟子であり親友でもありました。
当時は地方の勤務地で亡くなると亡骸は故郷に戻して埋葬されました。しかし道真は大宰府で埋葬されます。
なぜか?
多くの道真本では「道真の遺言で大宰府に埋葬された」などとあり、大宰府埋葬が道真の意志でなされたと説明されています。
しかし『菅家後集』を読むと、道真は死の直前までひたすら「京に帰りたい」という詩を書いています。どうも話が違うようです。
調べてみると「道真の遺言」は史実には存在しませんでした。
しかし…それでもやはり道真は遺言で大宰府での埋葬を選んだと考えられます。
それは俗にいわれるような「道真の意地」とかそんなセンチメンタルな理由ではなく、リアリストとしての道真の「配慮」ではなかったのかな、と思うのです。
つまり、自分は今ここに罪人としている。すると当然 死んで京に帰って埋葬されたらそれは「罪人の墓」となってしまう。
当時は個人より「家」が重んじられた時代。 罪人として京に埋葬されることは「菅原家の恥」と考え、罪人は罪人として流罪の地でひっそり土に帰る… これがリアリスト道真の考えたことではなかったのかな…と空想するのです。
なにせ、ただの罪人とはわけが違いますから。 年号を変えられてしまうほどの国家の逆賊ですから。「クジラ男」ですから。。。
帰りたくても帰れなかったのです。
だから大宰府だけでなく京でも道真を祀ることはとても理にかなっているように思います。
でも・・・ではなぜその場所が北野なのか?
北野天満宮はいろいろ不思議な神社なのですが、それはまた次のマンガ第5部「天神伝説・怨霊編」の解説で…