サラシを胸に巻いてた妹に、黄色いミモザの花を届ける
2021年3月8日、「国際女性デー」のきょう。
この日は大切な女性へ、黄色いミモザの花を送るそうだ。それを知ったわたしが真っ先に思い浮かんだのは、三番目の妹のことだった。
あれはちょうど10年前、小さなワンルームで、彼女とふたり暮らしの時期があった。当時のわたしは鎌倉の結婚式場に勤めていて、地元名古屋を離れて3年ほど経過していた。一人暮らしに慣れてきたある日、母から電話があった。
「大変なの。三女ちゃんが、車から飛び降りたの!」
「えぇ!どゆうこと…?」
「走り出す車からね、バーンと車のドア開けてゴロゴローッて……。もう、心臓止まるかと思ったわ!」
あいかわらず擬音語ばかりの母だが、なんとか理解できた。つまり、母と妹は車中でケンカして、妹は助手席から飛び出してしまったのだ。なんて危険なことを…。
「……それで今、三女ちゃんは?」
「うん…大したケガはなかったんだけど、本当に危なっかしくて。あの子が死のうとしてるんじゃないかって思って……。もし……そうなら……お母さんも一緒に死ぬ!」
電話越しで絶叫する母。いつも明るい人なのに、よっぽどのことなんだろう。
たしかに妹は10代に差し掛かった頃から情緒不安定だった。部屋の壁を殴って穴あけたり、物を投げてガラスを割ったり……。
それと、妹は女性の身体になっていくことを拒んでいた。
胸にサラシをぐるぐる巻いてつぶす。いつも黒いTシャツとジーパン。背中を丸めながら自分のことを「おれ」と呼んだ。
もしや、男性の心をもって生まれてきたのかと思ったが、違う気がした。赤ちゃんの頃からずっと見てきたからわかる。この時の彼女は、見えない敵と戦っているようだった。
わたしは4人姉妹の長女として、妹を守る存在でなければならない。離れて暮らしているけれど、いつもその気持ちが心の中にあった。
だからかもしれない。わたしは母に、ある提案を持ち出した。
「とりあえず1年さ、横浜のわたしのマンションで居候したら? 新しい世界を見たら変わるかもしれないよ?」
こう提案をしたのは、母と妹が少し距離を置いた方がいいと思ったから。
母は愛情深い人。妹はその愛情を「過度な期待」と感じて苦しんでいるような気がしていた。家族といえど、知らずに傷つけあうことも、ある。
・・・・・
一週間後、名古屋から三女ちゃんが居候しにやってきた。
ワンルームの玄関前に、小さなキャリーケースと少し猫背の彼女がぽつんと立っていた。
「よっ、あゆネェ」
「ひさしぶり、元気だった? 」
「うん、……あゆネェいなくて寂しかったよ」
「……うん。ごめん。……さ、狭いけど入って。荷物運ぶよ」
部屋の真ん中で妹がストンと座ったとき、ベットと机しかない殺風景な部屋が少し、あたたかく見えた。それはなんだか、心地よいものだった。
その後、彼女はぽつりぽつりと気持ちを伝えてくれた。つい感情的になってしまうこと。人とうまく話せないこと。自分は頭がわるいって思ってつらいこと……。
「あゆネェが横浜に来なよって言ってくれて、うれしかった。もう、どうしたらいいかわかんなくって……、困ってたから」
妹は話しながらポロポロと泣く。
わたしも泣きそうになったけど、ぐっとこらえた。これから妹は一人前の大人にならなきゃ。それを母に託されたから。
「横浜で知ってる人は誰もいないんだから、人の目を気にせず好きなことに挑戦してみな? アルバイトもできる年齢だし、自分でやりたいことを探してまずは働くこと。横浜の地で修行したまえ!」
「はい、がんばります!」
こうして、妹との共同生活が始まった。
いやはや、これがなかなか大変だったのだ。
洗濯機に携帯入れたまま服洗っちゃうとか。自転車貸したら駅の近くに放置してあまつには盗まれるとか。その度に、「しっかりしろ!」「ダメすぎる!」と怒っていたのだけど。
でも、彼女はいつも一生懸命だった。
「工場での仕事ね、すごく楽しいよ。集中して何か作るの、好きみたい」
「バイト先で友達ができた!……メールが来たけどなんて返せばいい?」
一喜一憂しながら毎日コロコロと笑う彼女を見て、思った。
そうか、三女ちゃんは純粋すぎるだけなんだ。だから社会の常識についていけない。嘘をつけない彼女は周りに合わせることができず、ストレスを溜めていたんだろうな。
そんな前向きになり始めた彼女を、いたずらに傷つける人がいた。
ある日、三女ちゃんが顔面蒼白でバイト先から帰ってきたことがある。
「あゆネェ…工場のおじさんがマンションまで車で送ってくれたんだけど、身体さわられた……」
「はっ!? 」
「どうしよう……部屋にあげろって言ってきて、怖くて飛び出してきた」
ピンポーン。ピンポーン。
間髪入れずに鳴り響くチャイム。ここは8階建てのオートロック。部屋のインターフォンモニターに、気持ち悪い笑みを浮かべた男が現れた。
わたしは……妹を傷つけたこの人に赤黒い殺意をおぼえた。ワナワナと手が震えたのは生まれて初めてだった。
受話器を取り、努めて冷静に。けれど低い声で言った。
「彼女の保護者です。あなたがしていることは犯罪です。今から警察に通報します。あなたの身元もわかっているので、会社にも連絡させていただきますから」
受話器を置いた。画面は見なかった。
「お姉ちゃん……ごめんなさい。わたしがちゃんとしてないからダメなんだ」
「ばか……違うよ。三女ちゃんは全然悪くない。悪いのは傷つけようとする奴だよ!! 」
急に怖くなって、震える声を隠すように強い口調で言った。その時、気づいてしまった。
わたしはこの社会で、女性が弱い立場にいることに慣れていたんだ。
ジェンダーによる生きづらさを感じたことがあったのに、「いちいち気にしていたらやってけない」と、今まで知らないふりをしてきた。
でもそれじゃダメなんだと、この出来事で思った。
みんなが生きづらさに順応し続けるから、未来の誰かを泣かせるんだ。
妹のような誰かを……。
震える妹の背中をさすりながら言った。
「……ごめん。お姉ちゃんが間違ってた。三女ちゃんは全然だめじゃないんだよ。生きづらくさせてるのは、この変態野郎とお姉ちゃんだった……」
ふたりして、肩を抱きながら泣いた。
・・・・・
現在の三女ちゃんは、1児の娘を持つママになった。胸にサラシは巻かないし、自分のことを「わたし」と呼ぶ。
女性になっていくことを拒んでいたあの頃を振り返って、彼女は言う。
「女だからって、なんで変わらなきゃいけないんだろうって不思議だったんだ。男の人に負けたくないって気持ちもあって。だから対抗してたんだと思う」
その言葉を聞いて、生きづらさを感じていた10代の自分が、少しだけ、顔を上げた気がした。
姪っ子はすくすくと育ち、天真爛漫な笑顔を向けてくれる。
この子がジェンダーを意識する日、彼女らしくいられる世の中であってほしい。妹が感じた苦しみ。わたしが順応してしまった社会。それを変えたい。
そのために、見ないふりしちゃいけないんだ。誰かが犠牲になって成り立つ世界なんて、まっぴらだ。
何もできないかもしれない。すぐに変わらないかもしれない。
でも、わたしは信じてる。
誰もがそのままでいい。わたしたちは、変わらなくていいってことを。
2021年3月8日、「国際女性デー」のきょう。
愛する妹と姪っ子に、黄色いミモザの花を届けよう。
(記:池田アユリ)