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距離を置け、期待するな

前の記事で引越しに関することを書いた。
私はひとり暮らしをしていたこともあったけれど(ふりかけごはんの記事はその時の話)いまは実家で暮らしていて、それでこのたび 実家を出ようと思っているんだけど。

一緒に住んでいる家族ともそれなりに仲が良く、親のことも好きだし尊敬していて。
そんな家族との関係を知っている人から、決まって言われる言葉。「家族と仲が良いなら家を出る必要ないじゃん」「親が寂しがるよ」「お金がもったいない」。
言いたいことはわかるけれど、でも、「仲が良い」「好き」「尊敬している」と「一緒に暮らせる」これって果たして同義だろうか?そういう話です。

先程の言葉の返事、「自立したくて」「通勤時間が長くて」。いつも濁すけれど 本当の理由は「家族と距離を置きたい」
悪いことではないと思っている。私は 人と良い関係を保つのにいちばん大切なのは「距離」だと考えているから。

私の母は楽天的、楽観的な性格で。明るくて、過去の嫌なことはその場で忘れて悩まないタイプだ。
それは自他ともに認める長所なんだけれど、これが私の短所と非常に相性が悪い。

(「インスタントな呪い」の記事と若干話が被ってしまうけれど) 私は人からのアドバイスを鵜呑みにしてしまったり、かなり影響されやすいところがある。自覚してからは気をつけているんだけれど。
そんな私と母の性格。それらの共演により それなりにいろんなことが起きた。

私は小学生の頃 少しだけいじめられていて。一度母に、決死の思いで打ち明けたことがあった。冗談まじりに笑いながら流されてしまって、改めてその話が出ることは二度となかった。当時のうまく伝わらなかった歯がゆさは忘れられない。

月日は流れて、ある親戚の集まり。私のことを「こんなにマイペースだったらいじめとかとは無縁だったでしょう」と言う親戚の言葉に対し「そうだね。お陰様で」と返す母の姿に絶句した。伝わらなかったどころか覚えてもいないんだな、と。

そして現在、いじめのニュースが流れる度に「親にさえ言ってくれれば 絶対に力になるのに」「どうして言えないんだろうね」と、母から言われる度に思い出してしまう。まさにセトウツミのムカーとスッキリの要領で、何度でも反芻しては傷ついてしまう。
もしかしたら私に嫌なことを思い出させないために あえて忘れたふりをしているのかもしれない、とも思うんだけど、真意は怖くて聞けていない。

関係ないが、私はこのとき いじめっ子に大切に使っていたクーピーを全て折られたという微妙な思い出があり、いまでもクーピーを見るとなんだか後ろめたい気持ちになる。

さて。長くなったけれど、相談してアドバイス通りに動いたらあとから「あれ冗談だったんだけど…」「そんなこと言ったっけ?」と言われて驚いたり、とにかくお互いにテンポが合わないというか ちぐはぐなのだ。
これは私目線からだけれど、きっと母から見た私は かなり後ろ向きで焦れったいに違いない。

つまるところ、私は彼女の言葉から逃げたいのだ。言葉が私の人生に触れないように、触れて私の人生が意図せぬ方に変わらないように、距離を置きたいのだ。
好きだからこそ、傷つかない距離から接したい。嫌なところを見なくていい距離で 心穏やかに過ごしたい。わがままだろうか?

そして この話と繋がっているかは分からないけれど、私が人間関係を築くときに気をつけているもうひとつ。それは「期待しないこと」

私はありがたいことに友達に恵まれていて。いろんなタイプの友達がいて、いろんな長所短所がある。もちろん、私にも。
むかしは誰彼構わずいろんな遊びをしていたけれど、最近はだんだん友達によって遊び方が定まってきた。これも悪いとは思っていないんだけれど。

例えば、よく遅刻する子と時間厳守のツアー旅行は行かないし、潔癖症(これは短所ではないけれど)の子を屋台の食べ歩きには誘わない。相手の愚痴を聞くときは自分の精神が安定しているときだけ。
当たり前と思うかもしれないけれど、結構大事じゃないですか?

「期待しない」と言ったら冷たく響いてしまうけれど、要は「相手をねじ曲げない」ということで。
よく遅刻する子とはゆったりと時間に縛られない遊びをすればいいし、もしその子が屋台好きならそういうところに誘えばいい。短所ではなく長所に沿った遊び方をすれば、お互いストレスを感じず 楽しく過ごせるのではと思うのだ。
これが「どうして時間を守れないの」「なんで我慢してくれないの」と相手を変えようとすると なんだか面倒くさいことになる。

ちなみに、もちろん私にも短所とか行きたくない場所とか 数え切れないくらいたくさんある。これについても特段無理をするつもりはなく、どうぞ別の方を当たってくださいという他ない。誘いに対して「してあげる」態度で応じることは相手にとっても迷惑なのだから。

ところで人に期待しないためには、ある程度友達がいなければいけないのでは、とも思う。
例えば友達が1人で、その子が遅刻魔だったらその子の性格を変えるか友達を増やさない限り「友達と時間厳守のツアー旅行」はできないわけで。むずかしい問題だ。

さて。また話が少し逸れてしまうけれど、この「友達によって遊び方を変える」という私の付き合い方、友達を利用しているだけでは?と思われる方もいるのではないだろうか。というか、私自身がそう思って悩んだことがあるのだ。

私は昔から人に順位をつけるのが苦手で。
学生の頃「このクラスの中で一番親しい友達は誰?」と先生に聞かれて、答えられなかった。おそらく今でも答えられないと思う。
ここまで読んでくださった方はお気づきだろうが、「みんな大切で大好きだから選べない!」という神様みたいな理由ではない。
「なににおいても一番の親友」というカテゴリーが存在しないだけだ。先程も書いたように、この遊びはあの子を誘うからこの子とは別の遊びをしたいな とか、もっと言えば この友達には話せるけどこの友達には伏せておこう とか。無意識に振り分けてしまう。
つまり、「何に対しての一番か」によって 挙げる友達も順位も、大きく変わってくるのである。

これって、冷たいんだろうか?されると悲しいんだろうか?
私はむしろ「親友」と扱われるのが苦手で、その人にとって「その他大勢」でありたいと思ってしまう。
「特別」になることは責任が生じるような気がしていて、それはきっと私には到底果たせないから。


これだけ好き勝手書いていてなんだけれど 私は人と関わることが好きだ。だからこそ、嫌いにならないために、自分が傷つかないために、私は人と関わる度 何度でも思ってしまう。

距離を置け、期待するな、と。

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