からだはわたしと一緒だし、一緒じゃない
トモ・コスガさんの書評を読んだ。
(※以下はトモさんの文章やピックアップされている写真を見ながら自分のなかから引っ張り上げたことなので、感想や言及には全然なっていない。すぐ自分の感覚や記憶に呼ばれてしまって、私はきちんと書評とかその文章自体を論じるということがなかなか上手にできない。自分だけの寄り道を広げるだけ。ときどきそういうのが情けなく思うこともあるんだけど(特にアパートメントのような媒体を長年管理してきたというのに、という意味でも)でも仕方がない、仕方がないし、私にとって自分の中に紐付いたなにごとかがこうして呼び覚まされることこそ、何かに打たれた時の反応であるのかなとも感じるので、同じようなことは何度も書いているんだけど、今回も書いておく)
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自分の肉体に対する何かしらの欠落の感覚や渇望、どうにもならなさ、イメージと実体とのギャップ、肉体があるということの残酷さや、体があるからこそ言えること、逆に言い切れないことを思いながら読んだ。
いったい、今まで何度自分の手のひらを眺めて
これはほんとうに私が持ってる体なんだろうか?たった今目の前にあるこの手と、私が見ているものと、この感触は同時で一緒のものか?
と考えただろう。
指を擦り合わせてみても、見ているものと感じているものの大きさがなんだか少しだけずれているような気がする。
指から腕を伝って、肩、鎖骨を見て、それ以上はもう見ることができない。鼻先は見える。でもこの、私が見ているこの窓と、それが乗っている自分の体はほんとうに繋がってて一緒のものなんだろうか。
ものをじっと見つめているとそのものと自分の距離とがぐんぐん離れていったり逆に目の前に迫ってきたりする。
自分はひどくがっちりしていて、大きな体をしているような感じがするが、鏡を見るとひどく小さい。
自分が存在しているような気がする空間より、実際に私の肉体が専有している空間は、ちいさい。
自分の肉体が触れる範囲というのは、見えることと聞こえることとと、どう違うんだろう。
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写真を撮るのはとても好きだ。
でも、そこに肉体が噛み合わないように感じることがもどかしかった。
私は写真に、肉を持ち込めない気がする。
踊ることに比べたら写真へまるごと投入できない、肉から遠すぎて、どうしても現実にあるカメラを構えているこのからだのほうに意識が行ってしまう。
視線が肉にならない。カメラが肉にならない。
自分のからだのありようのほうが、大きくなってしまう。
特に人を撮ろうとすると、自分の肉体が邪魔だ。自分の視線じゃなくて、カメラを覗いているこの本体ばかりがひりひり大きくなる。
踊るときみたいに、体と目の前にあることが一致して密度を濃くいられたら、そんな風に撮れるようになったら、なるべくなんにもできない不便なカメラを持ち歩いて、食べるように撮りたい。触り尽くすように。
でも今の私にはそれができない、だから少し撮ることから遠ざかってる。
からだがあるから、と言い訳しているけどただ単に、そこに全部をつぎ込むつもりがないだけなのかもしれない。
なんで踊ることだけはこんなに確かみたいな気がするんだろう、踊ることというよりは体と自分との関係だけは、ということか。
ちっともなんにも統御できないけど、このことを齧り尽くすことだけが生きる間にやってゆきたいことなのかもしれない。
わからない、踊らなくても体とのやりあいは続いてゆくのだから、踊りにこだわらなくてもいいのかもしれないけれど、でも今はやっぱり。