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子猿のゆううつ、楽園の出口(2)


 その場その場の優位な価値観に身をまかせ、自分の目でものごとを見ないこと。自分の頭で考えないこと。それがもたらした暗さについて。



 男も女もなく、等しく子猿のように育てられた幼稚園時代をとても快適に過ごしたものだから、小学校に入ってものすごく驚くことになった。この新しい小学校という世界では、男女はあまりにもはっきりと分けられていた。出席番号順の名簿は男女で別々。教室での席割りも女子の列、男子の列とが作られた。体育の授業で着用する指定の体操服もそれぞれ違うものが配られた(女子はなんとブルマーであった)。それから色分けがあった。男子は黒で、女子は赤。ランドセルや、体操着のリブ、上履きのつま先などなど、持ち物のいたるところに適用された。

 わたしは戸惑った。まるで山から下りてきた子猿だった。野に下りるなり、赤色のタグを耳に打ち込まれた。
 ――え、なにこれ? なんで赤? ここは一体なんなんだ?

 体育の前の着替えの時間は特に混乱を強めた。まだ低学年ということで男女別の更衣室が用意されることはなく、教室で着替えをするのだが、みんな周りの目を気にして着替えた。特に女の子たちはそうだった。それぞれが自分の机の前で、視線を黒板に固定し、棒立ちのままもぞもぞ着替えた。肌を見せないように。
 まず服の上から体操着を着て、それから内側の私服の袖を抜き、襟ぐりから抜き取る。スカートを着たままブルマを履いて、それからスカートをおごそかに脱ぐ。
 教師に教わるわけでもなく、その器用な着替えかたをみんなが会得した。着替えの最中にきょろきょろと周りを見るものがいれば複数の鋭い睨みで牽制された。
 ばかばかしい、と思った。
 わたしのいた幼稚園では男も女もいっしょになってすっぽんぽんでプールに入っていたんだよ、とみんなに話してやりたかった。それでも誰もわたしたちの裸なんて気にもしなかったのだと。男の子も、大人たちも。それなのにいったい誰が、あんたたちのパンツがちょっと見えたからって気にすると思う? ……

 そう言えなかったどころか、わたしもほどなくみんなと同じ「もぞもぞ着替え」をするようになった。女の子たちがみんな胸部や下着を見せないようにと工夫して着替える教室の中で、男の子たちと同じようなあっさりとした着替えかたを貫き通すことができなかった。教室では「もぞもぞ着替え」が圧倒的多数派であり、わたしはとことん、自分が少数の側になることには弱気だった。幼稚園の水場では裸の自分(たち)についてあれほど強気でいたのに、自分が一人ぼっちの子猿になるや、心細くなってイモムシのようにもぞもぞ着替えた。

 恥ずかしがることは恥ずかしいことなので、わたしはとても恥ずかしかった。そんなふうに周りを気にして着替えていることが。幼稚園で培われた自意識についての観念は、手厳しくわたし自身を苛んだ。つらいのでクラスメイトのせいにした。あんたたちが変に女の子とか男の子とか気にするからわたしもこんなふうにしなくちゃいけなくなった。でも本当のわたしは別にパンツとか、裸だって、恥ずかしいわけじゃない。みんなのやり方に仕方なく合わせてるだけなんだから。
 でもうまくいかない。いかに表面的な行動も、心の奥底を動かしてしまうようなのだった。少しずつ、少しずつでも。わたしは人目を気にするそぶりを模倣するうち、本当に、肌を見せるのが恥ずかしくなった。そしてやっぱり、恥ずかしがる自分が恥ずかしいのだというところに矢は戻ってきてしまうのだった。ぐさり。

 小学校生活の始まりはそういうわけで、わたしには暗い時代の幕開けのように思われた。ほんの少し前まで楽園にいたはずだった。性なき楽園。裸の楽園。子どもには性なんて関係ないと、気にすることなんてないんだと、幼稚園時代の大人たちは断言していた。口に出さない大人も、態度ではっきり同じことを言っていた。おかげでとても居心地がよかった。それが、小学校に来たらすっかり変わってしまった。楽園の時間はもう終わりだった。そんなの聞いてないよ。
 わたしは葉っぱで股を隠して、そうする自分を恥じ、そうしなくてはいけない世界に怒り、恥ずかしがって怒ったまま、ひとり立ちすくんでいた。

 しばらく立ちすくんだままでいたその場所で、子どもながらに苦労した。性について。だいたいは上に書いたようなひとりずもうだった。ひとりずもうだけならまだよかったのだけれど、ひとりでどたばたと取り組みをしているところに変態が現れたりして大変だった。

 1人目の変態は男子中学生で、でも遭遇したときのわたしは小学生に入って間もない女児だったから、その人は大人の男性も同然に見えた。実際、力が強くて、腕を振りほどくこともできなかったし(幼稚園であんなに山登りとかしたのに、と愕然とした)。
 学童保育の帰り途、ひとりで歩いていたところに声をかけられ、わたしのアパートの下までついてこられて、人目のない自転車置き場に連れ込まれ、抱きすくめられて、性器をさわらせるまで放してもらえなかった。
 「いいから」とその人は言った。よくない、と思ってもがいたけれど、何がよくないのかわからなかった。性について教えられたことの引き出しはスカスカで、そこには恥ずかしがることが恥ずかしいと力強く書かれた札だけがあった。だから、さわられるのを変なことだと思うこと自体が恥ずかしいのかもしれないという気がしてきた。事実その「いいから」はそういう意味をもたせようとした「いいから」だったのだろう。「ちょっと性器をさわるだけだよ。なんでもないことだ。変に意識しないでよね」。わたしは抵抗をやめた。ただちにショーツの中をさわられた。いやだという声だけを頭のなかに響かせながら。それでもそのいやだを正当な思いとして扱うことができず、混乱していた。1分くらい経ったころだろうか、隙をついて走って逃げた。
 階段をかけ昇って鍵を開け、部屋に入るとさいわい母は帰っていたが、わたしは母に何も言わなかった。手を洗って、母の用意したごはんを食べて、何もおかしいところのないよういつも通りに過ごしながら、今にもさっきの人が追ってきてチャイムを鳴らすのではとビクビクしていた。そして母にさっきのことを話すのではないかと。そうなったら怒られるのはわたしだと、頑なに思い込んでいたのだ。その恐れは何年も続いた。何せ家を知られているのだ。
 その中学生は、ことが露見して捕まるのを恐れたのだろう。二度とわたしの帰宅路や家の周りに現れることはなかった。
 わたしは結局、誰にもこのことを話さなかった。

 2人目の変態は小学校高学年のときに現れた、というかそれよりずっと前からわたしの生活圏内にいたのだが、事件が起きたのはわたしが5年生のときだった。このときのこともいつか語れるようになればいいと思う。今はとてもそうなれる自信がない。
 大事なのはこのときも、ことは両親の目と鼻の先で起きていたというのに、親のどちらにも報告することができなかったことだ。今に至るまで言えていない。たぶんこの先も言わないだろう。


 わたしが幼少期を過ごした幼稚園の、裸のプール(穴)に代表される「子どもに性など関係ない」式の教育は、何度も言うが、とても心地の良いものだった。わたしにとってはそこが一番自分らしくいられる場所であった。しかし、そこにどっぷり浸かりすぎてしまったために、自らが性的な対象にされる可能性があるということを知るのが大幅に遅れてしまった。わたしが幼児であれ児童であれ、そして男の子と同じような格好をしていても、性的いたずらの対象として見る人間はいたのだ、実際には。大人たちが「そんなやつはいない」と断言した人間が目の前に現れたとき、わたしは対処する術を持たず、例の恥ずかしがることが恥ずかしいと書かれたしょうもない札を握りしめて、起きたことの責を自分自身に負わせるほかなかった。

 大人になったわたしが生きるいまは西暦2020年なので、また、わたし自身が幼い子の保護者となったこともあって、当時の幼稚園や保護者のありかたについて思うところはたくさんある。30年後の未来から、そして子どもを預ける側の立場から眺めてみると、あの幼稚園での雑な性の取り扱いは、普通にひどい。包括的性教育という言葉をよく耳にするようになった昨今からすると、裸でプールとか、出先でのすっぽんぽんになっての着替えとか……変態に楽園を提供していたようなものだ。では男女が機械的に分けられた小学校はよかったかといえばそれもなくて、何せブルマーだし。
 でももう、言ってもしょうがない。当時はそうだったという話でしかない。1990年代は2020年ではなかった。わたしの幼稚園のような方針とか、ブルマーとかが、受け入れられやすい社会だったのだ。いろいろゆるくて雑だった、たぶん。
 もちろん、親としてのわたしは、子どもだったわたしが経験した類のことが自分の子どもの身に起こらないよう、できる限りのことを考えていかねばならない。負の経験を前向きに活かさねばならない。親としてのわたしは、それはそう。
 でもここでは親のわたしは横に置く。子どもの側に戻ってもう一度考えなくてはいけないことが、わたしにはまだ残されている。


 5歳、幼稚園のプール(穴)に裸で浸かりながら、パンツを脱ぎたくないと泣く女の子を内心で笑った。ほかの裸の子らと一緒になって、その子に冷ややかな視線を浴びせた。
 7歳、小学校の女子たちはみんな肌を見せずに着替えていたから、それを真似した。本当はそんな着替えかたはいやだったのに。

 5歳は園長や大人たちの作ったルールを正しいものと信じ込み、そこに乗っかることのできない子を見下した。大人に「子どもの裸を気にするやつなんかいない」と言われればただ信じ、疑うこともしなかった。
 7歳は自分が異端になることを恐れ、多数の女の子たちのやり方に合わせることで自分を溶け込ませた。
 どちらもやっているのは同じことで、その場その場での優位な価値観に乗っかることだ。ときには大人たちの、ときには教室で有力に見えた女子たちの。つまり、自分の頭でものごとを考えていない。実はこのことこそが、子ども時代のわたしを最も窮地に追い込んだ核心ではなかっただろうか?

 当然のことではあるが、性的いたずらを受けたことについてわたしに非はない。どんな性的被害も被害者に非があるなどということはありえない。更にわたしは子どもだった。子どもが大きな男の変態を止める力を持たないのは、生身の人間がトラックを止めることができないのと同じくらい明らかだ。
 あのときのことは、(こう考えるのは虚しいことではあるが、)たとえ何度時間を巻き戻してもわたしの身に起こるだろう。非がないというのはそういうことでもある。あることが起きた。そこまでは決定事項。こちらからは関与できない。ぼくたちはトラックを変えることができない、©️吉田さん。

 でもそこから先、起きてしまったことをどう扱うかについては、こちらの領分だったはずだ。起きたことをどう捉えて、どう処理するか。それは理不尽なできごとについて唯一わたしが力を持っていられる部分だった。この大事なところでわたしは躓いた。非のないことを、自分にも要因があって起きたことのように考えた。全く理屈が通らないのだが、そう考えてしまったのは、わたしが自分の頭でものごとをちゃんと考えない子どもだったからだ。わたしの頭のなかには、ほかの誰かが考えたことがそのまま入れてあるだけだった。だから理不尽なことをされて、困って、頭のなかに「性」で索引をかけても、誰かの言葉の表面的な写し書きしか見つからなくて、それに従ったら「わたしにもなにか悪いところがあったのだろう」となった。これはわたしの責任だと思う。

 5歳のときにわたしが見下した、園庭で泣いていたあの子。あの子はきっとあの歳で、性に関して自分の考えを持っていた。ほかの子たちに笑われても、「裸になるのが当たり前なんだよ」と大人たちに言われても、自分の感覚に従って、いやだと言うことができた。あの子の頭のなかにはちゃんと、自分で書いた文字が詰まっていただろう。軽んじていたからもう名前も思い出せない、立派なあの子。

 少しでも彼女のように、自分の頭でものごとを考えることができていたならば。自分に非があるなどという道理のない考えは一蹴できたかもしれない。そうできなかったから、わたしはその考えにとらわれてひとりでうずくまり、起きたことを抱え込み、誰にも何も言わないことを選んだ。唯一あたえられた力を放棄した。そのせいでのちのちまで、余分な苦しみまでをも負うことになった。

 過去の自分のこととはいえ、まだ小学生だった、しかもいやな目に遭って傷を負った子どもに、ずいぶん厳しいことを言うものだなあと思われるかもしれない。大人になった高みから、今だから言えることなんじゃないの? とも。しかしわたしは、こうして自らの思慮の弱さが招いた結果を認めることで、ようやく、自分の身に起こったことを自分ごととして取り返すことができた気がするのだ。自分の力で処理できるものごととして、このてのひらに載せて。このてのひらは34歳の女のてのひらであり、同時に、小学生の女の子のてのひらでもある。



 6月に入ったら夏みたいに暑い日が増えて、我が家にも水遊びの季節がやってきた。水をたっぷりと張ったタライをベランダに出して、子どもといっしょになって水と戯れていたら、ふと、あの幼稚園の庭に掘られてあった穴のプールのことが思い出されたものだから、

「あら懐かしい」

 なんて言って、記憶のなかのそこに足をつけた。それだけの気軽な一歩だったのに、泥まじりの水はどこまでも深く、気がつけばひとりでずいぶん暗い場所までおりてきてしまった。こんなところにつながっていたとはね。

 そこでわたしは見た気がする。暗くて冷たい水の底に長らくうずくまっていたふたりの子どもたち、小学1年生と、小学5年生の女の子が、水面に向かってゆっくりと泳いでいくのを。
 ほのかな光をたたえた水面を見上げて、わたしは目を細めた。



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